夕焼けだった
2019年10月11日 公開
こんばんは。
どうなってしまったのか、思うことは多々あるのに、パソコンに向かうと、今日はちょっとできる気がしないな、明日にしよう、まだいい、明日でもいいよねと。宿題を前にした小心者の小学生みたいなワタシになってしまっています。
台風は、私の住むところにも、少し引っかかって行くそうです。ベランダに置いているチェアや小椅子やバケツなどを部屋の中に移しました。他にすることといって無く。先の台風で酷い目に遭われた方々のお気持を思うと・・・思っても何もできません。
今日の夕焼けは凄かった。凄い、という言葉は、軽々に使うものではないらしいですが、でも凄かった。
西の空が、黒っぽい雲を抱えながらも、強烈な赤い色に染まっていました。真っ赤な夕焼け。こうなると、最近ずっと(いつもより一層)ぼや~んとしているアタマの中に鳴り響くのは、あの歌。「夕陽が泣いている」ザ・スパイダース。
堺正章は、歌がうまかったと、いま、思います。「風が泣いている」という歌もあった、好きでした。素直に情感たっぷりに唄っていたまちゃあきは、よかったけど、なんだか「めちゃくちゃずらし」で唄うようになって、よくなくなりました。
もう少し元気パワーが戻って来るのを待ちます。このごときヘタレKUONのブログを、のぞきに来て下さる皆さまに、本当に、心から感謝申し上げます。
皆さまや大切な方々や、大切な愛おしいワンコやニャンコに、悲しいことやしんどいことがありませんように。
昨日は、姑の付き添いで病院へ行っていました。大腿骨を骨折して入院、手術、リハビリ病院、と数か月、不自由な事でしたが、夏の終わりに自宅へ帰っておられ、病院へは私がついて行く。車は、次女が出したりタクシーを使ったり、です。
インシュリンを常用する糖尿病と、ほかあれこれ、持病をお持ちです。九十二才、耳も遠くなり「怒鳴り風会話法」。聴こえないのにイヤフォン使わないのは、うっとうしいのでしょうね。私は、筆談します。メモ帳にボールペンで書く。込み入ったことやイヤな話題には届かないので、シンプルでキレイなものです(笑)。
ずっと見て下さっている内科の先生が、車いす使わないで杖ついて歩いてはる、立派なものやねえ、と褒めてやって下さり、姑は嬉しそうにしていました。
曾孫は元気か、と言われるので、ガラケーに保存の写真をお見せしました。おおお。と驚いて、男前やなあ、と。ふん、あったりまえだわい、と私のココロの中の声。大きなったなあ、私に甘えてたあのコとは思われんわ、と姑、ニコニコ。
なるほど、と思いました。こんなに大きくなって(十七才)、お顔の具合もクラシカルに整って(わたしババばかですからご容赦下さい)となれば、そういうことがお口から出るのですね。
事情は省きますが、家裁の調停によって、ようやく母親である娘の手元で育てることが可能になった時、この孫はまだ、一歳に満たない赤ん坊だった。私は店を手放して、このコの成人するまでは、と、ハチマキきりりと締める思いで決意新た。夫の会社は倒産しかかっていて、そのゆえに、赤ん坊の養育環境に云々と、言いたい放題言われた、それは、本当だったのかもしれません。あちらのお家はお金持ち。娘と孫の父親が別居中に、マンション買った、キゲン直してやり直したら、と言ってこられた。でも娘は帰らなかった。
娘の夫だった男は、携帯三台持っていたし。そのお母さんは、明るいきれいな人だったが、新婚だった娘が買い物に出ていた間に、大きな仏壇を運び込んで。お守りできません自信が無いですと訴える娘に
「気にせんでいいのよ、毎日わたしが来て、お仏壇のことしたげるし、集会に出て来たら友達もいっぱいできるよ~」
まあ、うちの娘も、モノ知らず、未熟者でありました。それは事実。
すったもんだの末に孫は母親の手に、と結論が出て、頑張って育てて行こう、、となった。そんな時、姑がおいでになった。孫はいるのかと問うおかあさまに、抱っこして見せた、かわいいでしょう、と。その時、姑さまは仰ったのでした。
「こんな子、あっちで育ててもろたらよかってん」
何を言うか! と私は噴火しました。とはいえ、お金が無いから弁護士は頼めない、万策尽きて家でひっくり返っていたら、すべて知ってくれていた親友が、電話をくれた。弁護士のお金どうなった、と尋ねるのに、どうしようもない、と応えました。それまでに、会社の方の問題で、身内にもいささかの迷惑をかけていて、私の一生でいちばん、お金に困っていた時でした。そんな時に、親友は、お金、貸してあげると。友達にオカネ、借りられへん。へたばって転がっていた体を起こして言うと、
友達やから貸してあげるねん。そう、言ってくれました。
今はそのお金も、身内に迷惑かけた分も、すべて返すことができましたが、あの時のことは絶対、忘れません。後で知ったのは、子どもというものは、よほどの落ち度が無い限り、母親の方に親権は来る、ということでした。いや、そう教えてくれる人は、いた。でも、安心できなかった。弁護士頼んで、そうしないと、あの孫を失いたくない、と、思いつめていたのでした。
弁護士って、何もしないものだと思い知りました。でも、とにかく一緒に暮らして育てることの出来るようになった、初めての孫。
「そんな子は、あっちで育ててもらったらよかったのに」
私が怒って、仕事から帰った娘が泣きじゃくった姑のひとこと。どうやってでも私たちが育てる、そんなことは言わんといてと、口答えしないのを信条にしていた当時の私が大きな声を出した、あの日のこと。わがやは大変な時期でした。何もかも失くしかけていた頃。でも、別居中にもう、調停中にすでに、違う女の子と「いえ~い」の写真あげていた、それは娘のせい、若い男の子がオヨメサンに出て行かれて、淋しくて遊んでいただけのこと、と言い張る祖母さんの手に、あちらに、大切な子をお願いすることはできなかったのでした。
孫の、じっさいの父親だったT君は、悪い人間ではなかったです。両親が頑張り屋で、成果を出しておられて、彼に大きな期待がかけられた。
そういうことも、姑のなかでは「私に甘えていたあの曾孫」が、大きくなった、男前になった、という話になる。
話の本筋から離れて長くなってしまったので、今夜はここまで。
どうなってしまったのか、思うことは多々あるのに、パソコンに向かうと、今日はちょっとできる気がしないな、明日にしよう、まだいい、明日でもいいよねと。宿題を前にした小心者の小学生みたいなワタシになってしまっています。
台風は、私の住むところにも、少し引っかかって行くそうです。ベランダに置いているチェアや小椅子やバケツなどを部屋の中に移しました。他にすることといって無く。先の台風で酷い目に遭われた方々のお気持を思うと・・・思っても何もできません。
今日の夕焼けは凄かった。凄い、という言葉は、軽々に使うものではないらしいですが、でも凄かった。
西の空が、黒っぽい雲を抱えながらも、強烈な赤い色に染まっていました。真っ赤な夕焼け。こうなると、最近ずっと(いつもより一層)ぼや~んとしているアタマの中に鳴り響くのは、あの歌。「夕陽が泣いている」ザ・スパイダース。
堺正章は、歌がうまかったと、いま、思います。「風が泣いている」という歌もあった、好きでした。素直に情感たっぷりに唄っていたまちゃあきは、よかったけど、なんだか「めちゃくちゃずらし」で唄うようになって、よくなくなりました。
もう少し元気パワーが戻って来るのを待ちます。このごときヘタレKUONのブログを、のぞきに来て下さる皆さまに、本当に、心から感謝申し上げます。
皆さまや大切な方々や、大切な愛おしいワンコやニャンコに、悲しいことやしんどいことがありませんように。
昨日は、姑の付き添いで病院へ行っていました。大腿骨を骨折して入院、手術、リハビリ病院、と数か月、不自由な事でしたが、夏の終わりに自宅へ帰っておられ、病院へは私がついて行く。車は、次女が出したりタクシーを使ったり、です。
インシュリンを常用する糖尿病と、ほかあれこれ、持病をお持ちです。九十二才、耳も遠くなり「怒鳴り風会話法」。聴こえないのにイヤフォン使わないのは、うっとうしいのでしょうね。私は、筆談します。メモ帳にボールペンで書く。込み入ったことやイヤな話題には届かないので、シンプルでキレイなものです(笑)。
ずっと見て下さっている内科の先生が、車いす使わないで杖ついて歩いてはる、立派なものやねえ、と褒めてやって下さり、姑は嬉しそうにしていました。
曾孫は元気か、と言われるので、ガラケーに保存の写真をお見せしました。おおお。と驚いて、男前やなあ、と。ふん、あったりまえだわい、と私のココロの中の声。大きなったなあ、私に甘えてたあのコとは思われんわ、と姑、ニコニコ。
なるほど、と思いました。こんなに大きくなって(十七才)、お顔の具合もクラシカルに整って(わたしババばかですからご容赦下さい)となれば、そういうことがお口から出るのですね。
事情は省きますが、家裁の調停によって、ようやく母親である娘の手元で育てることが可能になった時、この孫はまだ、一歳に満たない赤ん坊だった。私は店を手放して、このコの成人するまでは、と、ハチマキきりりと締める思いで決意新た。夫の会社は倒産しかかっていて、そのゆえに、赤ん坊の養育環境に云々と、言いたい放題言われた、それは、本当だったのかもしれません。あちらのお家はお金持ち。娘と孫の父親が別居中に、マンション買った、キゲン直してやり直したら、と言ってこられた。でも娘は帰らなかった。
娘の夫だった男は、携帯三台持っていたし。そのお母さんは、明るいきれいな人だったが、新婚だった娘が買い物に出ていた間に、大きな仏壇を運び込んで。お守りできません自信が無いですと訴える娘に
「気にせんでいいのよ、毎日わたしが来て、お仏壇のことしたげるし、集会に出て来たら友達もいっぱいできるよ~」
まあ、うちの娘も、モノ知らず、未熟者でありました。それは事実。
すったもんだの末に孫は母親の手に、と結論が出て、頑張って育てて行こう、、となった。そんな時、姑がおいでになった。孫はいるのかと問うおかあさまに、抱っこして見せた、かわいいでしょう、と。その時、姑さまは仰ったのでした。
「こんな子、あっちで育ててもろたらよかってん」
何を言うか! と私は噴火しました。とはいえ、お金が無いから弁護士は頼めない、万策尽きて家でひっくり返っていたら、すべて知ってくれていた親友が、電話をくれた。弁護士のお金どうなった、と尋ねるのに、どうしようもない、と応えました。それまでに、会社の方の問題で、身内にもいささかの迷惑をかけていて、私の一生でいちばん、お金に困っていた時でした。そんな時に、親友は、お金、貸してあげると。友達にオカネ、借りられへん。へたばって転がっていた体を起こして言うと、
友達やから貸してあげるねん。そう、言ってくれました。
今はそのお金も、身内に迷惑かけた分も、すべて返すことができましたが、あの時のことは絶対、忘れません。後で知ったのは、子どもというものは、よほどの落ち度が無い限り、母親の方に親権は来る、ということでした。いや、そう教えてくれる人は、いた。でも、安心できなかった。弁護士頼んで、そうしないと、あの孫を失いたくない、と、思いつめていたのでした。
弁護士って、何もしないものだと思い知りました。でも、とにかく一緒に暮らして育てることの出来るようになった、初めての孫。
「そんな子は、あっちで育ててもらったらよかったのに」
私が怒って、仕事から帰った娘が泣きじゃくった姑のひとこと。どうやってでも私たちが育てる、そんなことは言わんといてと、口答えしないのを信条にしていた当時の私が大きな声を出した、あの日のこと。わがやは大変な時期でした。何もかも失くしかけていた頃。でも、別居中にもう、調停中にすでに、違う女の子と「いえ~い」の写真あげていた、それは娘のせい、若い男の子がオヨメサンに出て行かれて、淋しくて遊んでいただけのこと、と言い張る祖母さんの手に、あちらに、大切な子をお願いすることはできなかったのでした。
孫の、じっさいの父親だったT君は、悪い人間ではなかったです。両親が頑張り屋で、成果を出しておられて、彼に大きな期待がかけられた。
そういうことも、姑のなかでは「私に甘えていたあの曾孫」が、大きくなった、男前になった、という話になる。
話の本筋から離れて長くなってしまったので、今夜はここまで。
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