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返事の中までKUONです。
 今日は雑談
次回は六月のはじめ、と約して三日前に退院してきたオット。眠る時間に近づいて不調を訴え始めた。今まで無かった大声で「痛い痛い痛い」ともがいて。今回受けたことの一つ。

手首から右腕をさかのぼり、鎖骨の奥から心臓へ、カテーテルは、通ったのかな、そのへんが、すっごく痛んだらしい。

くすりをのんで何とか眠ってもらった。工場へは彼は、何がなんでも行く。行った。いまは注文が激減中、しんどい人にはおあつらえ向き、早めに送っていただいて帰って来た。前日のような激痛には襲われずで、でも私には気が抜けないのだった。顔をしかめて「ううう」と唸っている。病院へ行こうと云うのに、うんと言わない。うんと言わないのに、どうやこうやとあーだこーだとブツブツ仰る。ワタシは切れたい。痛いならなんとかしてもらいに行こう。イヤなら少しはガマンしたらどうなの、どちらかにしんさい。酷なツマです。

なんとか眠ってくれたので、もう一度じっくり調べた。少し前に調べてわかっているつもりだった、が、夫は、気が弱っている。気を救われたいのだ。

ああそうなの、辛いの、痛いの、かわいそうねえ、でも、それは「これこれなの。よくある術後の症状なの。昨日、受診しなくてよかったと思うよ、できることは無いの。落ち着いて、ゆううっくり眠る。これしか無いの(きっと)。」それだけのことを、彼自身が、得心するしか無いのだった、どんどんヒドくなる状態ではなかったのだし。心臓へ向かったカテーテルが、動脈硬化を起こしたり石灰化で弱ったりで細くなっている血管に、つまり、擦れたんですね。ひとこと言いたいわ、言わせて、安物の菓子パン、もぞもぞ食べ過ぎたのよ。止めて欲しかったのに。あああ、書いたのに、あまり、気が済まない(笑)。安物の菓子パンなんて、失礼なこと言っちゃった。

今朝はほぼ普通に出て行った。今日一日、がんばったら、明日はお休みだもんね、ガンバレ、と送り出した。

ワタシが、しんどくなった。もう何もしたくありません、しません、できません、と。よれよれと、ゆっくりと、倒れました、お布団って気持ちいい・・・。

夕方、筋力の落ちた脚を踏ん張って、帰って来た。重いのに、私の好きなお茶、京都、福寿園の伊右衛門さんを、三本も下げて来てくれた。

いまのオットにはマジで重いと思う、お寿司も買って来てくれた。ありがとう。

明日は奈良のお墓参りに行く予定だった、やめた。

ムコさんの鍼灸院、開けているとのこと、予約した、明日は血のめぐりを滑らかにしてもらいに行く。

オットは、カテーテルをして下さった心外のドクターに不信感を抱いているようだが、それは違う、と私は思っている。私は感謝している。見ていて辛いほど、一所懸命にして下さっている。若くて、いろんな仕事をいっぱい、背中に追わされているように見える。結婚指輪がシンプルなのに目立つが、なかなか自宅にも帰れていないのではないか。のっぽでロン毛で、こりこりに痩せている。何かの不具合で、もしも何かがあったとして、そういうこともあるやろう、仕方ないやん、と思う。かなり本気でそう思っている。

今日は、おべんきょう進みませんでした。最近こんなんばかりな気もします。ごめんなさい皆さま。また、やるときゃ、やるから、です。

夫のコロナ検査、結果は陽性ではありません、でした。


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 *  分類 : 日常
自動通知機能 : -  *  伝言 : 2  *  記事編集  *  2020年05月22日(Fri) 21時36分
 元気やなあ。
こんばんは。

静かです。まわり、みな、静かです。文句つけたいわけではないが、なにか息が詰まって来るような。

大竹しのぶの「ふくろう」なんて映画を見たり(パソコンで)、音楽を聴いたり(パソ君で)、冷蔵庫の中を掃除したりしましたが、気が浮いて来ない。

長女の、二年ほど前の動画を、見つけて、見ていました。

明るい気持ちにはなった気がします。GWの、イベントだったのですね、これ。背後にポートタワーが写っています。吠えたりしています。縦じまのジャケットを着て、全身で踊っていますね。この頃はこうして、日本中で踊っていたんだなあ・・・。。


  078Kobe 2018 オッケーバブリー 柚月 恵 ポールダンス チェアダンス チェアレスク Megumi Yuzuki Chairlesque chairdance Ambrosia 神戸元町

  おまけ   阪神電鉄【公式】HANSHIN GRAFFITI 「NEO阪神人_柚月恵」


おお、元気やなあ、と。刹那、わらっていただけるかと。



 *  分類 : 日常
自動通知機能 : -  *  伝言 : 2  *  記事編集  *  2020年05月02日(Sat) 22時50分
 これから、ですよ。
身の回りで色々な動きがあって、なんとか収束、でも関電へのお返事まだや、というあたりで、あ~疲れたなあ、と。へたへたとなって、昨日と今日はほぼ、眠っておりました。

本社を移転して。倉庫を借りて社宅をもうけて越して来る孫娘の高校入学を確かめて。銀蔵クンも家族と一緒にこちらの社宅に入ります。成耳は一人で倉庫の一室で暮らします。自炊するそうです。本社の移転(所在地を変えるだけ)、自分で書類をつくって自力でやろうとしてみましたが、これは挫折。初めからプロに任せればよかったが、できると思って挫折しました。失敗はそれだけです。うはぁ、強気。

今日、さきほど、奈良の家の最後の後片付けをしている次女から、すっげえよ、と何枚か写真を送って来て。私たちがこちらへ来るのに、部屋、ほぼそのままに来てしまったそこの、デスクや棚や何やかや、使わないので処分を頼んだそれらの、残骸となった写真。そのうち行ってなんとか、と思いながら置いてあったモノ、ほぼすべて、処分してもらうことにした・・・自分たちの不用品を、娘夫婦に託した。

食器も重箱も漆器のセットも。無くなった。気に入って買ったアンティークの食卓も、大きすぎ、重すぎるから、不用品に。

はじめ、夫が脳梗塞を起こして、通えないと判断して大急ぎで身の周りの品だけ業者に頼んで運んで。この、海の見える部屋は、ガランガランの、ポットも無い状態でした。電気もガスもまだで、うつって来たのは二月のことで、とても寒かった。タオルもお茶を淹れられる食器も無く。私、お友達に泣きつきました。な~んにも無いの、替えのタオルも無いの。

友達はすぐに、送ってくれました。上等のタオル、雑巾にできるタオル。ペアのコーヒーカップにお皿のセット。心のこもったプレゼントでした。見ながら、私ここで頑張ろうと思いました。

お気の毒な話でなく、万事、何事につけ計画性のない私たちのしたこと。言い訳すれば、当時、一緒に暮らしていた娘夫婦は、急に体が動かなくなること、思い通りに体も事情もどうにもならなくなること、が、理解出来ていなかった。仕方のない事です。若いのだから。それは本当にそう思う。そうなのなら、自分の気の済むように、できるようにするしかない。夫は一人前に仕事はできないならば、アタマだけ工場の近くへ。なんとか仕事できるように、運んで行くしかない。死なせてしまうかも・・でも、本人は、あわあわ言いながらも、そうすることを望んでいました。

行こう。行く。それまでほとんど足を運んだことも無かった地で、工場へ通えるあたりで、部屋を探して。この、望外であった海の見えるマンションを探して、移った。

ここで夫は、自分流に通い、自分流に仕事を進めるすべを見つけてくれました。

・・奈良へ置いて来たものは、捨てられたり壊されたり。ものすごい見積もりを、婿さんはとったようですが、娘はそんな時、黙って支払いはしません。人脈をたどって、見積もりの半額よりいっそう安価に、モノを処分してくれる相手を見つけました。自分で小さい会社を興して、そんな仕事に猛進しているダンス仲間。値切らないで、きちんと交渉しなさいと、私は言う。

交渉結果は〇、で。今日、大きな不用品を持ち出したり壊したり、ということになったそう。

感謝だわ!。ありがとう!。私はへたって寝ていたのに、力仕事してくれてありがとう。言い尽くせません。


そして思う。正直、惜しかったものもあります。思えば、ある。でも、自分でどうか出来なかったモノを、惜しんでも仕方が無い。

断捨離と、よく聞きますが、それって簡単にできることなのか、どうなのか。私には、だらしないせいもあるが、体力的に現実的に、ものをきちんと活かしてやることはできませんでした。残念ですが。

ココロの一部が、とても明るいです、いま。もう奈良に、こころ残すものは無い。残しておいて誰かに処分の迷惑をかけることは、無い。これからは、今よりももっと、体は動きにくくなるに決まっている。モノが無くなって、良かったんだわ。

とか言いながら、現在の住まいにもまだ、着物や本や、あれこれとあります。この程度なら何とかできそうな、モノたち。

これからは、本当に欲しいモノを買います。こじんまりと暮したいです。

日本中、大変な時期です。長女は電話で、スタジオを一時閉鎖にしたと言って来ました。夫さんの仕事も、それなりの影響を受けているそうで。私たち子どもいないし、ニャンコと三人、どうにでもなるわ~、と明るい声だったので安心しました。

私の会社は、毎週金曜日を休みます。成耳も、入社してすぐにこの状態ですが、大丈夫でしょう。大掃除させている次女も、これから本気で頑張ると言っているし、私も、頑張るのです。

まるごと私事でした。お読み下さりありがとうございます。

お返事は必ず、書かせていただきます!。

おまけ

「 おうちdeダンス!!10分チェアレスクチャレンジ4 柚月恵

   いろんな動画をアップしていますが、柚月、肩の力を抜いてして下さい、というチェア・レスクなるダンスを
   お薦めしています。
   動画冒頭、愛猫「おすし」も顔出しています。


 *  分類 : 日常
自動通知機能 : -  *  伝言 : 4  *  記事編集  *  2020年04月05日(Sun) 17時01分
 勝手ながら。
みなさま。いつも読みにおいで下さり、ありがとうございます。

今日は、お雛様のこと・・流しびなのこととか、ね。恒例の、人形の久月が出して来られるお雛様のこととか。

少し書きたかったのでした。久月の今年の「め・を」カップル、大丈夫なのか、と唖然とするくらい、本物らしいというか、これが本物ならばもうもう、こういった雛型は要らない、きれいも気品もな~んにも無い、違う方向から言えば、よくぞここまで形代としての役割をお掘り下げになられまして・・お二方、遺憾なくその中身をお晒し遊ばして・・と、脳内くしゅくしゅって感じになるくらい、ぶさいくなお雛さまで。久月さんエラい、久月さんヒドい。ここまで書いて医院かい。

お雛さまには、夢があって欲しい。いいトシして、そう思うのです。

和歌山の淡島神社の流し雛の記事も、ネットで読みました。

勝手ながら今日は、これまで。お返事も、ゆっくり書かせていただきたいので、明日の夜にはきっと、と、思いを定めております。


[ YOUTUBE「期待びな」に新天皇 久月で公開、紀平選手も]

 *  分類 : 日常
自動通知機能 : -  *  伝言 : 2  *  記事編集  *  2020年03月04日(Wed) 20時28分
 お豆腐

子どものころ、お豆腐なんて、どこが美味しいのだろうと思っていました。おしょうゆをかけただけの豆腐がおかずなんて、つまんないと思っていた。

好きだったのは、揚げ物。近所の公設、こまどめ市場の出口(あちらからは入り口)の近く、肉屋の店頭でおばちゃんが一日中コロッケを揚げていた。おばちゃんは、油から出して網の上に置いたばかりのコロッケや串カツやとんかつを、手でひょい、とつまみあげて、緑色の薄い紙を敷いた新聞紙や経木の舟に、ほいほい移していた。

ものすごく熱いだろうと見ていた、とんでもなく熱かっただろう、実際に。けれどおばちゃんは、五つ、と言われたら五つのコロッケを、素手でつかんでいた。ひとつ五円だったその店のコロッケを、世界中で一番おいしいコロッケと信じていた。成長する過程で、いろんな店のいろんなコロッケを口にした。値段も形もそれぞれ、時には、コロッケ、などという呼び名をされていない、おフランス料理屋のそれを、期待に満ちて…ドキドキしながら、ナイフでプシュッと切り分けて・・・いただいたりもしました。はたち頃にはピザも出て来ていたし、連れて行ってもらったロシア料理店のピロシキ、なんてものに、卒倒しそうな魅力を感じて。しかし。

あの、幼少の砌に愛したコロッケの味には、どこでも、出会えなかった。ほぼ揚げ物を回避するようになっている今も、あのコロッケなら食べたい。茹でたジャガイモの中に、時々舌に触れるちっさなスジ肉の点在した、小判型の、ラードで揚げられていたコロッケ。

母は、コロッケを買いに行くより多くの頻度で、豆腐を買いに行くお使いを私に命じた。

公設市場の中にも豆腐屋はあったが、そこではなく、もう少し遠い店へ、買いに行かせた。道路の角っこの、ひさしの低い、まあ言えば、とてもボロっちい店だった。オジサンが一人営む店。道路に面している店の開口部には、いつもオジサンだけがいた。夏も冬もハチマキをして、ゴムの前掛けをして、いつも半分笑った顔で「いらしゃい」と言った。

木綿豆腐を買うことが多かった。というか、当時、小学生の私は、その、いつも買う「もめん」以外の豆腐のあることを、知らなかった気もする。

「もめん一丁下さい」言って、白いホーローの容器を渡すと、へい、とはい、の間くらいの感じで答えてくれ、水の中に浮かんでいる豆腐を、すごい速さですくい上げて器に移す。そして、必ず、油揚げを一枚、付けてくれるのだった。油揚げもオジサンが揚げていた。オマケの揚げは、端っこが僅かに縮んでいたり、気にならないほど歪んでいたりの品だった。

豆腐と揚げの味噌汁を、よく、食べた。三日に一度はそれだった。名古屋の人間にとって味噌は赤味噌に決まっている。今もある「角久」という味噌蔵(というのか)の、味噌。味噌漉しでよく濾してからでないと、簡単には溶けない。それは手に入るので、買っている。私の夫のルーツは愛知県、三河、姑はぱりぱりの京都人だが、嫁ぎ先に合わせて名古屋味噌を使っていた。で、夫も赤味噌の味噌汁を吸って育っている。

中学へ入るため関西へ来たのだが、関西の味噌は、私には、味噌と思えないものだった。人さまの家で暮らすのだから・・養父の家へ引き取られたのだ‥食べ物のことで、まず何やかや、言ってはいけない。母にも何度も諭されたし、私自身、そんなみっともないことはしないわ、とココロに決めていたし、で、味噌汁が甘いだのその家が時々はお菜にも出したコロッケが、とても私の思いとは違ったものであっても、口に出さなかった。養父の家では、食べ物に関して「船場式」なのだそうだった。私は、船場式より名古屋式がよかった。大きな屋敷で、広い中庭があって、豪勢な家に見えたが、お手伝いの「もっちゃん」のお昼ご飯は、ほとんど毎日、かつお節屋で分けてもらってくる「粉かつお」に、お醤油をかけたものだけだった。もっちゃんは家に置きたくなくて預けられた、みたいな立場のひとで、何をするにもゆっくりだった。優しい性格の女性、レース編みを始めては、ぜったいに最後まで編み通すことが出来ない。時々、お父さんが訪ねて来られて、おやつやらお金を渡していた。もっちゃんは何やら駄菓子類を買って来ては、もしょもしょと食べていた。

あまり人に言ったことは無いが、私は、母親に、隠れて小遣いをもらっていたので、一人だけ外で、美味しいものを食べることがあった。。中学生の頃に、食べ物屋で食事をすることを覚えてしまった。養父の子どもたちには母親がついていたし、もっちゃんと食べ物を分かち合うことは無く、自分でひもじさを抑える工夫をするしかなかった。到来物の多い家だったし、届けられるものは、特別の牛肉だったり桐箱メロンだったりで、お相伴にもあずかった。が、日々の普通の食事が、なかなか困難だったのだった。養父の妻は、家事を好まない主婦だった。もっちゃん以外の、ねえやさんたちは、皆、出て行ってしまうのだった。

当時、長い休暇の時になど名古屋の実家に帰ると、例のおじさんの豆腐屋の豆腐と油揚げの味噌汁を食べた。味噌汁は母の朝の習慣のものでもあったので、そうだった。母は私に、こまごまと料理を作るよりも栄町のデパートへ一緒に行って、なんでもある食べ物のなかの、好きなものを食べさせるタイプの人だったのだ。

あの味噌汁は美味しかった。油揚げが、味噌を吸い込んでクッタリとなって、口の中で、舌で押すと、なんともいえない味がした。それと、養父の家では出ない白ご飯の、固めに炊かれたもの、一緒に美味しかった。
熱々でも冷めかけでも、いっそ完全に冷めてしまった味噌汁とごはんでも。

本当に、美味しかった。うんと後になって気づいた。気づきがどんどん大きくなった感じ。

自分で作っても、あの味はしてくれない。

あの豆腐屋さんは、春が進むと、豆腐の中におろし生姜を埋め込んだ豆腐も出していた。子どもだった私は、それを、あまり好まなかったが、大人たちはうまい、うまいと、暑い時期のおかずに重宝していたということだ。

美味しい豆腐だったのだろうな。


 *  分類 : 日常
自動通知機能 : -  *  伝言 : 9  *  記事編集  *  2020年03月02日(Mon) 23時29分