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返事の中までKUONです。
 モルダウ が好き

中学二年の時の音楽の先生は、よくいろいろ、聴かせてくれた。「ペルシャの市場にて」とか。「ツィゴルネルワイゼン」とか。聞きながら体中の血が噴きあがるようでした。涙が出ていることもありました。

昨日の夜、夫が、パソコンを長時間独占していて。いいかげん替わってくれよ、と、私は文句を言うた。あゴメンゴメン。私がどんだけ勝手に使っていても、文句を言うことの無い夫は(わたしはコワい妻ではないですけど)、たたたっとキーを押して、まず「シェルブールの雨傘」を出しました。あ、この曲好き。

「ブーベの恋人」「鉄道員」「トゥナイト」映画音楽はどんどん流れ、ホンワカとなっておりました。普段は夫は工場にパソコンを置いていて、家ではテレビをだら~っと見ているのですが。

毎日、時間がたっぷりあります。駅近くのお店が、どんどん休業に入っています。この状態はいつまで続いてしまうのでしょう。

高校へ、入ったはいいが、一日とて登校したことの無い孫娘が、大荷物抱えて泊りに来ています。どこかへ行こうか、ロフト行きたいでしょ、美味しいモン食べに行こうか・・・みんな、ダメ。控えます。このコは若くて元気で頑丈そうですが、母親に、じいちゃんに移すようなことがあったら大変だから、と、出歩かないよう厳命されているようで。何もねだりません。もともとオウチ好きタイプです。

私自身は、ずううっと家にいるのは気になりません。家は事務所でもありますし、時に適当に音楽聴いたり動画観たりで。

もっと激しく仕事に出かけたりして来た方々、そうでないと回って行かない方々は、この日々、、昨日や今日を、どんな気持ちで送っておられることか。

重くかぶさって来る気持ちを抑えながら、「太陽がいっぱい」、ああ、あのラストシーンが忘れられない、なんて、こうしてここに、書いてしまっております。

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 *  分類 : 思い出話
自動通知機能 : -  *  伝言 : 2  *  記事編集  *  2020年04月18日(Sat) 22時49分
 千人針
明日は母の亡くなった日です。十四回目の命日。

なんとなくあれこれ、思い出していて。ふと。

母は五黄の寅、という最強の(といわれます)干支のもとに生まれていました。確かに気は強かった。

その母がある時、あ、思い出した、みたいに語ったことに。

「わたしも寅。あんたも寅。これでもう一人、虎がおったら、千人針でお役に立てかもわからんにね。うちには一人足りんわね、」

戦時中母は、何人もの人に、沢山の人に、千人針を頼まれたらしいです。。寅年の中でも殊に強いという五黄の寅。普通の女性はひと針ずつしか縫い目を作れないが、母の干支では、年齢の数だけ縫い目を作ることができたそうで。白い晒の布に、赤い糸で針を入れて、ほつれないように玉をつくる。戦争中、三十代だった母は、持ち込まれた晒に一所懸命に針を入れ、玉でとめた。外で呼び止められて布を受け取り、寅年と言うと感謝されて、

「よおけ、縫ったげた」

と言っていました。身近な男性たちが出征するときに、その晒を身につけさせて見送ったのが、千人針。町なかのあちこちに、ひと針なりと、と見知らぬ女性にも頭を下げる女性たちが立っておられたということでした。

自分の知る限り、千人針の晒が帰って来たという話は、聞いたことが無いと、母は、言っていましたっけ。

深刻になる一方の戦況に、どうする術も持たない女性たちが、伝わっているように弾除けになれかし、と集めた千人針。

なぜ、今日、そのことを、母の話を思い浮かべたのか。

・・・千人針。いま、理不尽な新型コロナウイルスとやらに、どうも何もできないでいる自分。なにかできることは無いのか、との気の乱れが、こんなことを思い出させたのでしょうか。



 *  分類 : 思い出話
自動通知機能 : -  *  伝言 : 0  *  記事編集  *  2020年04月11日(Sat) 22時30分
 隔靴掻痒
ラグビーのワールドカップが日本で開催されると知った時、養父を想った。

ラグビーが好きだった。好きだったというレベルではなく、自分が校長をつとめるようになった高校のラグビー部を日本一にする、を悲願として、グラウンドに電話を引いて、他に幾つも抱えていた仕事をやりやすくした、芝生のグラウンドにした、実際に養父の在職中に、全国制覇を成し遂げたと記憶している。

当時、私も中学から高校の年代だった。ラグビー部のことをだけ考えていたのでない養父は、柔道部の強化もはかった・・・・・・すべて、すべて、リアルタイムでは知らなくて、後で聞いたことばかりです、同じ屋根の下に暮らしながら・・・・・時々ばたばたと帰って来てガサガサとごはんを食べ、着替え、あれはああしておけ、それはこうしておけと、怒鳴りながら玄関を走り出て行くのが、当時の養父の姿でした・・・・・柔道は高校から大学の方へ受け継がれて、大きな選手が沢山育って、オリンピックの金メダリストも出た。

どこかで勝ってきたと言う選手たちを自宅に招いて、すき焼きを食べてもらったことがあり、部屋は田の字型の一部屋で、狭くはなかった、でも、一ダース以上もの柔道部の選手が、詰襟の学生服の膝を、折って、窮屈そうにしているのが気の毒で。買って来た肉も、あれは何キロだったか、とうてい十分に行き渡る量では無くて、ひたすらグツグツ煮えて行く巨大なすき焼き鍋を取り囲んで、巨大な男たちが、モジモジと、箸を出すさえためらっていた、あの忘れられない時間(笑)。

養父は一度で学んで、自宅すき焼きは止め、三重県の、岸すべて巨石が続いている島ヶ原という河原で、すき焼きをすることにしました。高校や大学や各種学校、その学園のいろんな学校の学生たちが、大勢で、すき焼きの大判振る舞いにあずかったのでした。

そういうところで養父と顔が合うと私は、見えなかったふりをしました。養父も声をかけて来たりしなかった。

珍しく家にいて、ボクシングの試合などある時、養父は、体を揺らしながら一心に観ていました。その後ろで私も観ました。

花園に連れて行ってもらったこともあった。秩父宮ラグビー場にも。秩父宮妃殿下は、何かの時に貴賓席からラグビーボールを投げおろす役をなさったそうですが、楽しそうに笑いながら養父は、「ほんまに、ごきげんよう、と言わはるねんで」と、言っていました。

西宮球技場から花園ラグビー場に全国大会の会場が移った年にも、その高校は優勝している・・・。

養父が亡くなった後の追悼集を読み返してみたら、随分さまざまな役職に就いて、走り回っていて、外国のチームをたくさん歓待したり・・・・・養父一人の力ではもちろんありませんが・・・・・

そういう時代のそういう環境で、追悼集のタイトルは「なにがなんでもなんとかせい!」というのですが、そういう生き方を許された恵まれた人だったのではあるでしょう。私は養父がこわくて苦手だったので、何日もおられないと気が楽でよかったのでした、でも、そんな時には、やはり猛烈プッシュしていた吹奏楽部について(?)アメリカまで遠征していたとか、という話もありました。

ラグビーの、指導者を育てるにも、力を注がれた。

なにがなんでもなんとかせい! が、通る時代でもなくなっているのだろう。養父みたいなやり方が通る時代でもなく、ああいう、言って見れば無茶苦茶ながむしゃらな仕事人は、存在することも難しい気がする。

八十才になった時に養父は、○○の名誉会長職をいただいていて、かつて熱意を注いで国際試合を行うことのできるラグビー場を創り上げていた、そこで、紫のパンツを贈呈された。八十代の選手が身に着ける、紫のパンツ、第一号。

養父は喜んで、皆と写真を撮りたいと言い出し、フルバックで出場させていただいた、と。

なかなか細かいことを書けなくて、勝手に隔靴掻痒。

本当に一生懸命、ラグビーが好きだった。

ワールドカップが日本で行われると、聞いたら、ワシも行きたい、行く、と、何をどうしても、行きたがったでしょうか。

自分は専門家ではない、と、練習を何時間も眺めながら、一言も言葉を出さなかった、と。

思い出すことはいろいろあります、こわくて苦手で逃げたかったそのひとを、とても懐かしく思い出します。

もう少し甘えたかった、と、詮無いことを思います。

支離滅裂な記事になりました。。


 *  分類 : 思い出話
自動通知機能 : -  *  伝言 : 1  *  記事編集  *  2019年09月07日(Sat) 21時49分
 広島の小母さん
50年以上むかしの、夏休みのこと。

常は養父の家に暮らして学校へ通っていた私、夏や冬の休暇には、名古屋の母の家へ戻っていた。そこを起点に、母の里や父方の叔母の家の世話になっていた。広島からおばさんの来られたのは、中学生の時だった。

母の父方のいとこで、子どもの頃から仲が良かった、とは母の言。幾つか年が上で、母より早く結婚して広島の町なかの写真館の奥さんだった小母さんは、ゆったりとした態度の口数の少ない人で、私を「変わった子だ」と見ている気配はなく、なんとなく好きな小母さんだった。

当時とても話題になっていたウィーン少年合唱団の映画「青きドナウ」を観に、連れて行ってくれた。このことは、以前にも書いたことがある。

映画は素敵で、帰りに松坂屋デパートの大食堂で食べさせてもらったオムライスの美味しかったこと、忘れていない。

本ばっかり読んでいる子、であった私と,小母さんは、とりとめのない話をしながら、夜を更かしてくれた。大人には決まっているのだが、とてもオトナのひと、悠々としてどうでもいいことに驚いたり説教に走ったりしないその人が、私は、どんどん好きになっていたのだと思う。

母もきっと、小母さんに憧れている面があったのだろう、戦争中も、リュックに詰められるだけ野菜やお米を詰め込んで、広島まで運んでいたと嬉しそうに話していた。母のところへは、母の里の伯父さんが自転車で持ってきてくえていたのだそうだ。岐阜から名古屋まで。。

明日は小母さんが還るという夜のことだった。何の都合か家風呂をたてられず、小母さんと私と二人、近くの銭湯へ行った。

そこで私は、経験したことの無い他人のまなざしの凄さを知ったのだった。

体を洗って小母さんと私は、大きな浴槽に沈んで、うっとりしていた。女の人が入って来て、あれ、みたいな大声を出した。数秒無言、すぐに、ばしゃばしゃとお湯を蹴立てて出て行った。「あんな」と、はばかりの無い声が響いた。

やけど、うつる、考えないと。そんな言葉だったと、うっすらと記憶する。火のような視線だった。

小母さんは何も言わなかった。静かにお湯を掻きよせて、自分の腕から胸へかけて一面の皮膚の引き攣れにかけてやっていた。

何も言わず出て、私を呼んで、うつむきがちに脱衣場へ足を進めた。

「ケロイドはうつったりしないよ」

見つめている私に、にっと笑った。みな、知らないんだから仕方ない。そう言った。

憧れの銭湯のフルーツ牛乳を、その日私は初めて、経験した。

夜の道を、小母さんと二人、黙ってゆっくりと歩いた。母にはそのことを言わなかった。

昭和20年8月6日。アメリカは広島市に原子爆弾を落とした。小母さんはその爆弾でケロイドを負った。ピアノが弾けなくなったらしいが、あの頃、小母さんのそんな悲しみは、取るに足りない些細なことであったのだろう。

タイミングを合わせたようにその日、ジャガイモを背負って行ってその町にいた母は、ほうほうの態で逃げ帰り、何が起きたかを二人の娘にいっさい言えないで、ずっと寝付いて、翌年に生まれた三人目の長男を、生後三日目に亡くした。

お臍から血が出続けて、真っ白で、お乳も飲めずに死んでしまった。小さい細い指が、六本あった。母が私に教えてくれた「兄」は、そんな赤ん坊だったらしい。ゆきおちゃん、と、父と母は名付けたらしい。私が知っているのはそれだけ。一枚あった写真では、巨大な白百合の隙間に、小さな顔がのぞいていた。

私は元気で大きく育ち、若い時よりだんだん強くなって行く気持ちの底で、この時期には、広島の小母さんや母のことを、思い出す。

一人で思い出す。

 *  分類 : 思い出話
自動通知機能 : -  *  伝言 : 6  *  記事編集  *  2019年08月07日(Wed) 21時29分
 お坊さんと蜻蛉玉
昨夜、十二日、東大寺・二月堂では籠松明(かごたいまつ)の炎が、夜を焦がしただろう。

常は七メートル。この夜は長さ八メートル、70キロもの籠松明を、童子はかついで僧侶を先導、激しく火の粉を降らせながらも回廊を駆け巡っただろう。奈良のお水取りの佳境の行事。本来の「お水取り」は、今朝十三日の明けの頃から始まっただろう、大仏開眼以来、途切れず続いて、1276回目。だという。

ある年の、三月半ば。黒衣の僧が、わが店を訪れた。顔は黒光りしていた。おつむの髪は伸びかかっていた。故郷を出る時にはぴっかりと剃髪されていたと思われる頭部に、髪はひと月分、伸びていたか。

ここに蜻蛉玉はあるかと問う。ありますと答えて、ここに、と、示した。蜻蛉玉の作者が展示用の台までこしらえて来ていて、斜めに、ひとつずつ、玉が見えるように工夫された台。そこを、小柄、痩身の僧は、じっと眺めた。触れないように前のめりに、真剣に凝視されていた。

はあ、と息をついた。んん、と小さく声を漏らした。。思いつめたようにやがて、これを、と。三つの蜻蛉玉を指でさした。

町工場に勤めながら、小学校の給食を作っている妻と二人、子を育てながら、いっしんに蜻蛉玉を作っているNさんの、巻いた玉である。月に二回ほど、はにかみながら現れて新作を見せてくれるNさんの、訪れが、待ち遠しかった。それらを、委託という形で預かって、買ってもらっていた。持ってきた時は「いい」と思っていても、次に店に来て見た時に「これは出せない」と思うことがある、そんな時に引き上げやすいように、委託・・売れただけお金をもらえるようにしたい、というのが、Nさんの望みだった。私はそれでかまわなかった。そのやり方だと、売れ残りの品が出ないわけで、私は助かる。Nさんも、心おきなく冒険作も持ち込める、ということで。

蜻蛉玉について詳しく説明すると、とても長くなるから、ここではさせてもらいません。

炎の上で、棒に、さまざまな色のガラスを溶かしながら巻き付けてゆく、その途中で色を入れたり模様を入れ込んだり、全く同じものはできない。そういう、ガラスの玉のこと。とんぼだま。信じがたいほど細かい、玉の表面に描かれた絵画とも見える細工がなされたり、金箔銀箔、妖しゅうに閉じ込められたり。

蜻蛉玉は、ぜひ扱いたかったガラス細工で、何人かの作り手に会ったり気まずく物別れになったりの末、私の好きな球を巻かれるNさんの品を、扱うようになっていたのだった。値段の話をすれば、チマタで取りざたされるものとは違う、とても買いやすい値段だったと思う。高価でなければ値打ちが無い、と思うタイプのお方に、鼻で笑われたりもしたが、こちらも内心の鼻で笑っていたから、かまわないのである。

Nさんは、売る側から見たら、こりゃ同じ値段ではあり得ないわ、のどの玉も、同じ値段でいいと言う。それでは逆の意味で不公平、と言っても聞かない。自分は、作るのが楽しい、嬉しい。そういう段階(でも七年、励んでいる人だった)。たくさん作りたい、欲しい方には沢山買ってもらいたい。と言い張って聞かない。なので、店側のやり方として、と無言の了解を得た(つもりで)、玉によってはプラスアルファの値打ちを乗せた値段設定にしたものもあった。好みとはいえ、単色に筋をひとすじ、の玉と、途中で入れ込む小さな花から細かく作って、と手間暇かけた品とは、同じではないですよ~、と、強引に押したりして。Nさんは、これでいい、と言っている以上の値段で売れた品を、嬉しくも恥ずかしくも感じているようだった。支払いは売値に合わせてきちんとして、それは、受け取ってもらっていた。私も店のスタッフも、ナイショで、ひとつずつプレゼントしてもらった・・そういうことは、あった。

僧が選んだ玉は・・これも言葉では説明しがたいのだが・・Nさんが、くううっと入れ込んで巻いたであろう、の品ばかりだった。入ったばかりの品でもあった。

よく見れば、黒衣の僧の黒衣には、つまり焼け焦げたお松明の火花の名残が、全身にまつわりついているのだった。

お水取りの練行衆は、十一名。その練行衆の、世話係をつとめるのが「童子」と呼ばれる僧。その周りにも、さまざまな黒子を必要とするあれこれがあるのだろう。そんな程度の知識しか無かったのだが、目の前のお坊さんが、どこか地方から東大寺の修二会のために来寧している方で、すべてが終わって帰る方で、とは想像できた。

そのススを、待っている方々があるのかも知れない。

「坊主がこのようなものを」

と言いかけて僧は、下を向いた。ボンさんカンザシ買うを見た、という歌もあるし。そういうのでもないのでは、という気がした。どういうものでも、私が詮索することでないのだ。北の方の方であろう。一途に、東大寺での行事を、つとめて来られたのであろう。店に入って来た様子では、わが店をご存知の様子だった。当時は、旅行雑誌や女性誌のあれこれに、紹介される店になっていた。

蜻蛉玉を買われるのは、圧倒的に男性が多い、と実感していた頃でもあった。女性客の多い店。その私の店で、男性方は、多く蜻蛉玉を求めて行かれた・・・。

ひとつずつ、透明な袋に入れ、アルバイトの大学生が嬉しそうに張って作ってくれる和紙の袋に収め、それらの玉には私のつけた値段がついていたのだが、作者の意図は、と説明して、Nさんの希望の値段をいただこうとした。・・・ら、お坊さんは、ついている通りのお金を支払いたい、と言われるのだった。やっぱりね、と思った。そう、仰る気はしていた。それなら、つけてある通りの値段を頂こうと思った。黒衣の僧は、斜め掛けの頭陀袋から大きな布の財布を取り出し、大切そうに札を取り出して、お金を下さった。ありがたくいただいて、おまけです。言って私は、星の形の、てのひらに入るくらいの、黄色いガラスのかたまりを一つ、差し上げた。ひとつ百五十円で、籠に盛り上げて売っている品。僧は驚いて、これは、と手に取って、ありがとうぞんじます、と。二月堂のススがついて洗われていないままの顔で、笑われた。

お水取りの時期になると思い出すことの一つである。




 *  分類 : 思い出話
自動通知機能 : -  *  伝言 : 3  *  記事編集  *  2019年03月13日(Wed) 22時17分