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隔靴掻痒

ラグビーのワールドカップが日本で開催されると知った時、養父を想った。

ラグビーが好きだった。好きだったというレベルではなく、自分が校長をつとめるようになった高校のラグビー部を日本一にする、を悲願として、グラウンドに電話を引いて、他に幾つも抱えていた仕事をやりやすくした、芝生のグラウンドにした、実際に養父の在職中に、全国制覇を成し遂げたと記憶している。

当時、私も中学から高校の年代だった。ラグビー部のことをだけ考えていたのでない養父は、柔道部の強化もはかった・・・・・・すべて、すべて、リアルタイムでは知らなくて、後で聞いたことばかりです、同じ屋根の下に暮らしながら・・・・・時々ばたばたと帰って来てガサガサとごはんを食べ、着替え、あれはああしておけ、それはこうしておけと、怒鳴りながら玄関を走り出て行くのが、当時の養父の姿でした・・・・・柔道は高校から大学の方へ受け継がれて、大きな選手が沢山育って、オリンピックの金メダリストも出た。

どこかで勝ってきたと言う選手たちを自宅に招いて、すき焼きを食べてもらったことがあり、部屋は田の字型の一部屋で、狭くはなかった、でも、一ダース以上もの柔道部の選手が、詰襟の学生服の膝を、折って、窮屈そうにしているのが気の毒で。買って来た肉も、あれは何キロだったか、とうてい十分に行き渡る量では無くて、ひたすらグツグツ煮えて行く巨大なすき焼き鍋を取り囲んで、巨大な男たちが、モジモジと、箸を出すさえためらっていた、あの忘れられない時間(笑)。

養父は一度で学んで、自宅すき焼きは止め、三重県の、岸すべて巨石が続いている島ヶ原という河原で、すき焼きをすることにしました。高校や大学や各種学校、その学園のいろんな学校の学生たちが、大勢で、すき焼きの大判振る舞いにあずかったのでした。

そういうところで養父と顔が合うと私は、見えなかったふりをしました。養父も声をかけて来たりしなかった。

珍しく家にいて、ボクシングの試合などある時、養父は、体を揺らしながら一心に観ていました。その後ろで私も観ました。

花園に連れて行ってもらったこともあった。秩父宮ラグビー場にも。秩父宮妃殿下は、何かの時に貴賓席からラグビーボールを投げおろす役をなさったそうですが、楽しそうに笑いながら養父は、「ほんまに、ごきげんよう、と言わはるねんで」と、言っていました。

西宮球技場から花園ラグビー場に全国大会の会場が移った年にも、その高校は優勝している・・・。

養父が亡くなった後の追悼集を読み返してみたら、随分さまざまな役職に就いて、走り回っていて、外国のチームをたくさん歓待したり・・・・・養父一人の力ではもちろんありませんが・・・・・

そういう時代のそういう環境で、追悼集のタイトルは「なにがなんでもなんとかせい!」というのですが、そういう生き方を許された恵まれた人だったのではあるでしょう。私は養父がこわくて苦手だったので、何日もおられないと気が楽でよかったのでした、でも、そんな時には、やはり猛烈プッシュしていた吹奏楽部について(?)アメリカまで遠征していたとか、という話もありました。

ラグビーの、指導者を育てるにも、力を注がれた。

なにがなんでもなんとかせい! が、通る時代でもなくなっているのだろう。養父みたいなやり方が通る時代でもなく、ああいう、言って見れば無茶苦茶ながむしゃらな仕事人は、存在することも難しい気がする。

八十才になった時に養父は、○○の名誉会長職をいただいていて、かつて熱意を注いで国際試合を行うことのできるラグビー場を創り上げていた、そこで、紫のパンツを贈呈された。八十代の選手が身に着ける、紫のパンツ、第一号。

養父は喜んで、皆と写真を撮りたいと言い出し、フルバックで出場させていただいた、と。

なかなか細かいことを書けなくて、勝手に隔靴掻痒。

本当に一生懸命、ラグビーが好きだった。

ワールドカップが日本で行われると、聞いたら、ワシも行きたい、行く、と、何をどうしても、行きたがったでしょうか。

自分は専門家ではない、と、練習を何時間も眺めながら、一言も言葉を出さなかった、と。

思い出すことはいろいろあります、こわくて苦手で逃げたかったそのひとを、とても懐かしく思い出します。

もう少し甘えたかった、と、詮無いことを思います。

支離滅裂な記事になりました。。


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広島の小母さん

50年以上むかしの、夏休みのこと。

常は養父の家に暮らして学校へ通っていた私、夏や冬の休暇には、名古屋の母の家へ戻っていた。そこを起点に、母の里や父方の叔母の家の世話になっていた。広島からおばさんの来られたのは、中学生の時だった。

母の父方のいとこで、子どもの頃から仲が良かった、とは母の言。幾つか年が上で、母より早く結婚して広島の町なかの写真館の奥さんだった小母さんは、ゆったりとした態度の口数の少ない人で、私を「変わった子だ」と見ている気配はなく、なんとなく好きな小母さんだった。

当時とても話題になっていたウィーン少年合唱団の映画「青きドナウ」を観に、連れて行ってくれた。このことは、以前にも書いたことがある。

映画は素敵で、帰りに松坂屋デパートの大食堂で食べさせてもらったオムライスの美味しかったこと、忘れていない。

本ばっかり読んでいる子、であった私と,小母さんは、とりとめのない話をしながら、夜を更かしてくれた。大人には決まっているのだが、とてもオトナのひと、悠々としてどうでもいいことに驚いたり説教に走ったりしないその人が、私は、どんどん好きになっていたのだと思う。

母もきっと、小母さんに憧れている面があったのだろう、戦争中も、リュックに詰められるだけ野菜やお米を詰め込んで、広島まで運んでいたと嬉しそうに話していた。母のところへは、母の里の伯父さんが自転車で持ってきてくえていたのだそうだ。岐阜から名古屋まで。。

明日は小母さんが還るという夜のことだった。何の都合か家風呂をたてられず、小母さんと私と二人、近くの銭湯へ行った。

そこで私は、経験したことの無い他人のまなざしの凄さを知ったのだった。

体を洗って小母さんと私は、大きな浴槽に沈んで、うっとりしていた。女の人が入って来て、あれ、みたいな大声を出した。数秒無言、すぐに、ばしゃばしゃとお湯を蹴立てて出て行った。「あんな」と、はばかりの無い声が響いた。

やけど、うつる、考えないと。そんな言葉だったと、うっすらと記憶する。火のような視線だった。

小母さんは何も言わなかった。静かにお湯を掻きよせて、自分の腕から胸へかけて一面の皮膚の引き攣れにかけてやっていた。

何も言わず出て、私を呼んで、うつむきがちに脱衣場へ足を進めた。

「ケロイドはうつったりしないよ」

見つめている私に、にっと笑った。みな、知らないんだから仕方ない。そう言った。

憧れの銭湯のフルーツ牛乳を、その日私は初めて、経験した。

夜の道を、小母さんと二人、黙ってゆっくりと歩いた。母にはそのことを言わなかった。

昭和20年8月6日。アメリカは広島市に原子爆弾を落とした。小母さんはその爆弾でケロイドを負った。ピアノが弾けなくなったらしいが、あの頃、小母さんのそんな悲しみは、取るに足りない些細なことであったのだろう。

タイミングを合わせたようにその日、ジャガイモを背負って行ってその町にいた母は、ほうほうの態で逃げ帰り、何が起きたかを二人の娘にいっさい言えないで、ずっと寝付いて、翌年に生まれた三人目の長男を、生後三日目に亡くした。

お臍から血が出続けて、真っ白で、お乳も飲めずに死んでしまった。小さい細い指が、六本あった。母が私に教えてくれた「兄」は、そんな赤ん坊だったらしい。ゆきおちゃん、と、父と母は名付けたらしい。私が知っているのはそれだけ。一枚あった写真では、巨大な白百合の隙間に、小さな顔がのぞいていた。

私は元気で大きく育ち、若い時よりだんだん強くなって行く気持ちの底で、この時期には、広島の小母さんや母のことを、思い出す。

一人で思い出す。

お坊さんと蜻蛉玉

昨夜、十二日、東大寺・二月堂では籠松明(かごたいまつ)の炎が、夜を焦がしただろう。

常は七メートル。この夜は長さ八メートル、70キロもの籠松明を、童子はかついで僧侶を先導、激しく火の粉を降らせながらも回廊を駆け巡っただろう。奈良のお水取りの佳境の行事。本来の「お水取り」は、今朝十三日の明けの頃から始まっただろう、大仏開眼以来、途切れず続いて、1276回目。だという。

ある年の、三月半ば。黒衣の僧が、わが店を訪れた。顔は黒光りしていた。おつむの髪は伸びかかっていた。故郷を出る時にはぴっかりと剃髪されていたと思われる頭部に、髪はひと月分、伸びていたか。

ここに蜻蛉玉はあるかと問う。ありますと答えて、ここに、と、示した。蜻蛉玉の作者が展示用の台までこしらえて来ていて、斜めに、ひとつずつ、玉が見えるように工夫された台。そこを、小柄、痩身の僧は、じっと眺めた。触れないように前のめりに、真剣に凝視されていた。

はあ、と息をついた。んん、と小さく声を漏らした。。思いつめたようにやがて、これを、と。三つの蜻蛉玉を指でさした。

町工場に勤めながら、小学校の給食を作っている妻と二人、子を育てながら、いっしんに蜻蛉玉を作っているNさんの、巻いた玉である。月に二回ほど、はにかみながら現れて新作を見せてくれるNさんの、訪れが、待ち遠しかった。それらを、委託という形で預かって、買ってもらっていた。持ってきた時は「いい」と思っていても、次に店に来て見た時に「これは出せない」と思うことがある、そんな時に引き上げやすいように、委託・・売れただけお金をもらえるようにしたい、というのが、Nさんの望みだった。私はそれでかまわなかった。そのやり方だと、売れ残りの品が出ないわけで、私は助かる。Nさんも、心おきなく冒険作も持ち込める、ということで。

蜻蛉玉について詳しく説明すると、とても長くなるから、ここではさせてもらいません。

炎の上で、棒に、さまざまな色のガラスを溶かしながら巻き付けてゆく、その途中で色を入れたり模様を入れ込んだり、全く同じものはできない。そういう、ガラスの玉のこと。とんぼだま。信じがたいほど細かい、玉の表面に描かれた絵画とも見える細工がなされたり、金箔銀箔、妖しゅうに閉じ込められたり。

蜻蛉玉は、ぜひ扱いたかったガラス細工で、何人かの作り手に会ったり気まずく物別れになったりの末、私の好きな球を巻かれるNさんの品を、扱うようになっていたのだった。値段の話をすれば、チマタで取りざたされるものとは違う、とても買いやすい値段だったと思う。高価でなければ値打ちが無い、と思うタイプのお方に、鼻で笑われたりもしたが、こちらも内心の鼻で笑っていたから、かまわないのである。

Nさんは、売る側から見たら、こりゃ同じ値段ではあり得ないわ、のどの玉も、同じ値段でいいと言う。それでは逆の意味で不公平、と言っても聞かない。自分は、作るのが楽しい、嬉しい。そういう段階(でも七年、励んでいる人だった)。たくさん作りたい、欲しい方には沢山買ってもらいたい。と言い張って聞かない。なので、店側のやり方として、と無言の了解を得た(つもりで)、玉によってはプラスアルファの値打ちを乗せた値段設定にしたものもあった。好みとはいえ、単色に筋をひとすじ、の玉と、途中で入れ込む小さな花から細かく作って、と手間暇かけた品とは、同じではないですよ~、と、強引に押したりして。Nさんは、これでいい、と言っている以上の値段で売れた品を、嬉しくも恥ずかしくも感じているようだった。支払いは売値に合わせてきちんとして、それは、受け取ってもらっていた。私も店のスタッフも、ナイショで、ひとつずつプレゼントしてもらった・・そういうことは、あった。

僧が選んだ玉は・・これも言葉では説明しがたいのだが・・Nさんが、くううっと入れ込んで巻いたであろう、の品ばかりだった。入ったばかりの品でもあった。

よく見れば、黒衣の僧の黒衣には、つまり焼け焦げたお松明の火花の名残が、全身にまつわりついているのだった。

お水取りの練行衆は、十一名。その練行衆の、世話係をつとめるのが「童子」と呼ばれる僧。その周りにも、さまざまな黒子を必要とするあれこれがあるのだろう。そんな程度の知識しか無かったのだが、目の前のお坊さんが、どこか地方から東大寺の修二会のために来寧している方で、すべてが終わって帰る方で、とは想像できた。

そのススを、待っている方々があるのかも知れない。

「坊主がこのようなものを」

と言いかけて僧は、下を向いた。ボンさんカンザシ買うを見た、という歌もあるし。そういうのでもないのでは、という気がした。どういうものでも、私が詮索することでないのだ。北の方の方であろう。一途に、東大寺での行事を、つとめて来られたのであろう。店に入って来た様子では、わが店をご存知の様子だった。当時は、旅行雑誌や女性誌のあれこれに、紹介される店になっていた。

蜻蛉玉を買われるのは、圧倒的に男性が多い、と実感していた頃でもあった。女性客の多い店。その私の店で、男性方は、多く蜻蛉玉を求めて行かれた・・・。

ひとつずつ、透明な袋に入れ、アルバイトの大学生が嬉しそうに張って作ってくれる和紙の袋に収め、それらの玉には私のつけた値段がついていたのだが、作者の意図は、と説明して、Nさんの希望の値段をいただこうとした。・・・ら、お坊さんは、ついている通りのお金を支払いたい、と言われるのだった。やっぱりね、と思った。そう、仰る気はしていた。それなら、つけてある通りの値段を頂こうと思った。黒衣の僧は、斜め掛けの頭陀袋から大きな布の財布を取り出し、大切そうに札を取り出して、お金を下さった。ありがたくいただいて、おまけです。言って私は、星の形の、てのひらに入るくらいの、黄色いガラスのかたまりを一つ、差し上げた。ひとつ百五十円で、籠に盛り上げて売っている品。僧は驚いて、これは、と手に取って、ありがとうぞんじます、と。二月堂のススがついて洗われていないままの顔で、笑われた。

お水取りの時期になると思い出すことの一つである。




おっちゃんの花器

行商もどきをしていたと、先日書きました。

義弟が海外でダンナ買いして膨大に積み上げたガラスのアクセサリー、ガラスのオルゴール。僅かな数ではあるが小さな鳥や動物や、ガラスの枝、ガラスの実のついたツリー。置いておいて古くはならないし腐りもしないけれど、自宅に積んでいてもどうしようもない品々。それに、乞われるままにお金を支払ってしまった。というより、口出しされるのがイヤで、貯金のかなりの金額を渡してしまったのだから、自分の責任。どげんかせんといかん、のでした。

バブルのしっぽの残っていた時代。四十年も前から、そして今も親しい付き合いのある友人のMさんは、奈良から離れた大阪ではあるが、急行の停まる駅から徒歩数分の家に住んでいました。心身に障害のある長男、お兄ちゃん思いの長女、やんちゃなサッカー少年の次男は、その年、中学生になっていました。

家の、幹線道路沿いのスペースに自転車やガラクタ置いてるけど、あそこ何か、店でもやれたらと思うてる、と、以前から言っていました。ピーンと来た。住まいとつながった小さな可愛い店を、作ることになりました。長年の夢だったらしいのでした。「そやけど何を売ったらええのか、わからへんかったんや。」

ガラスのオルゴールや動物や。そんなん、扱いたかってん。見せて話したら彼女は大喜び。私も、自分が抱え込んでいる品を、そこで売ってもらえれば助かる。彼女は苦労人。お金の話は真面目にしました。

店のオープンまでに私には、することがありました。もっと商品を、集めて来ること。

うまく書けない気がしますので細かくは書きません。書くとしたら、以下のようになりますか。

・・かつて大阪には、吹きガラスの職人たちがたくさん、いました。小さな工場が沢山ありました。ガラスを溶かす窯の火は一年中、消えることは無い。火を落とすときは廃業の時。と、私はそれまでに、知っていました。冬でも職人さんたちはシャツ一枚、頭に手拭首にも手拭、全身汗にまみれて、塩分が不足すると目まいを起こして倒れることもあり、いつも容器に山盛りにしてある塩を、なめながら、吹きに吹いていた。

そんな時代がありました、が。ガラスの容器を世の中が必要としなくなって・・プラスティックや紙パックが席巻していって・・工場はどんどん潰れ、職人さんたちは仕事を失い・・・バブルの時代には、テレビのコマーシャルに於いて、吹きガラス作家のどなたかが「マイスター」とか呼ばれておいでだった記憶がありますが。私が押しかけて行ったのは、そんな、マイスターにはなれなかった、過去にはガラスを吹いて吹いて暮らしていた、と。そう、教えてくれたおっちゃんの、住居兼倉庫でした。

そこを知って行ったイキサツは今は省きます(後で書くかどうかはわかりません)。とにかく、売って下さい~って、押しかけて行ったのでした。

二階建てのおっちゃんの倉庫、というか何でも置きの場所は、狭いけどある種の魔窟のようでありました。ものすごい量のガラスの皿や壺や鉢や、そういったものが、ひっそりと或いはたっぷりとホコリをかぶって、誰にも忘れられたように、鎮まっているのでした。タタミ半分の大きさの四方壁無しのエレベーターがあり、ガタガタ揺れるそれに、やはあ、これ面白いですね~とか必死で言いながら乗せてもらって、

「おっちゃん(そう呼べと言われた)、これ、ぜんぶ触っていいんですか」

「ああ、ええのんあったら持ってってや」

「失礼ですけど、わたし、選べません、こんな沢山の吹きガラス見るの初めてですし、目もできてませんし」

「好きなもん持ってたらええねん」

「好きかどうかがわからないので、とりあえず」

直径四十センチはありそうな青い皿に、思わず手が伸びていた。

こんな皿を、型にはめて作るのでなく、吹いて作るなんて並みのことではない。確かな知識は無くても、感覚が私に伝えた・・ここ、キザですか。

・・私は知っていた。直接おっちゃんに聞いたのではない、おっちゃんの奥さんが、私を倉庫にあげる前におっちゃんが消えていた間、お茶を勧めてくれはって、立ったままお茶をいただきながら、聞いたのだ。少しでもエエから買うてくれやったら助かります、と。おっちゃんは、大変、お金に困っているのだそうだった。

「選べへんので、割れてないモン、よおけ、できるだけ、もらいたいんです」

私の、懸命の交渉だったか。おっちゃんはアホらしく、面白かっただろう。

おっちゃん、そいでええで~、と。私はまず、お腹巻き付けポシェットに入れて来たオカネを、おっちゃんに差し出しました。自分なりにいっしょけんめいに貯めたオカネ、義弟に行った分の、残りのお金。

「おっちゃん。私、いま、こんだけしかお金持ってません。ここ見て、もっとお金、作りたくなったけど、そんなようけは作れないと思いますけど、できるだけたくさん、買わせて欲しいんです」

「でけただけでええがな」

おっちゃんは言った。ポケットから紙きれを取り出して、そばにあったギシギシの机の上の、乾いてしまったようなボールペンで、無理やり、金額と日付と〇〇商店、△△と書きつけた。紙に文字を彫りつけたような領収書が出来上がった。

「こういうのんは、でったい取るようにしときや、奥さん」

その日は、段ボール箱に詰めるだけ詰めて車に乗せられるだけ積んで持ち帰った。息子さんが運んでくれた。

車には、夫が待っていた。夫は必ず、待っている人だった。私の商売だから、私だけで動けと言うのだ。

その後、数度、おっちゃんの倉庫に行った。おっちゃんは、割れやカケの無い品を、別にして置いてくれていた。

それを、丁寧にきれいに洗って友人のMさんのオープンした店へ運んだ。観光地でないので、お客さんが何度も見に来られる品があってもいいのではないか、と、思ったのだ。すぐに住宅街の迫った場所だったし。

自分で売りたくて、売れる日が来るまで寝かせておいた品もあった。プロの商売人だったらしないようなことを、していた気がする。おままごとの延長なのね、と言ったお客さんもいた。私は、子どもの学費をなんとか、と、熱かったのだと思う。


・・・はじめ「~ました」で書いていた文章が、なんでやねん(笑)、「だ」とかの文章になっていた、読み返してみると。

もうこのままにしておきます。

おっちゃんは結局、夜逃げしてしまわれました。何やらあったか無かったのか、私には、ぶっきらぼうでしたが、優しいおっちゃんでした。品物には、まこと珍しい、逸品とよぶべきものが沢山あったです。大量生産品でない、本物の吹きガラスの逸品たちでした。

私の手元にも幾つか、残してあります。金赤(本当に金を使って赤の色を出した)の水差し。

大正ガラスを模した、裏赤=花器の口の裏側に赤い色をつけたもの。難しいそうで。表面は、大正ガラスの特徴のうす水色、やさしいブルー。白がほのかに混ざりこんで。何十年眺め続けて飽きない。それだけは、残しました。



バイト志願


あのコはどうしているんだろ。

・アルバイトさせて下さい、とやって来て。ああ、ごめんなさいね、募集していないの。せっかく来てくれたのにゴメンね。と、ワタシが、せめて数のハンパなビー玉でも、と後ろを見たトタンに、レジ(祖母の裁縫箱を流用)前の色とりどりの小さなピアスを幾つか、ぱさ、とつかんで、出て行こうとした、あのコ。淡々とした堂々としたマンビキだった。わかるのよ、そういうの。

呼び止めて、お手々ひらいてみて、と開かせたら、ピアス三つ、握ってしまっていた。

「これ、あかんやん」

商品を取り返して、透明な袋に五つ入ったビー玉、代わりに握らせてあげた。

「よそでこんなんしたら、アカンよね、そう思うでしょ」

って言ったら、コクっとうなずいて、すんませんでした、とアタマ下げて、店を出て行った。


・アルバイトさせて下さい、と、そのコも、ある日、やって来た。バイトは募集していなかった。人手を頼む時は、私なりのやり方で、そうしていた。ごめんねえ、と、彼女にも、断った。

え。いや。色の白い背の高い彼女は、言った。

「私。この店ならバイトできるのですが」

しっかりした口調。え、でも、うちは今、募集していないので。と、言った、私は。

「あ。いや、私できるんです、ここなら。親も、この店ならいいと言うと思います」

「はあ」

「女性の客がほとんどで、扱うものも綺麗で、観察したのですが、夜は七時過ぎまででしょう。ここならアルバイトできるのです、私」

どんどこ押してくる。引く気は見えない。

市内の、有名な国立の女子大の、学生だとのこと。どなたにせよ、わが店では、要らないんだよお。

最後はきっぱり、言わせてもらった。

「あなたのご都合はどうでも、私の店ではアルバイトさんは現在、不要なのです。以上」

よかったらまた、お客さんとして、のぞきに来て下さったら。など、私にしては愛想よく、したつもり。彼女は、きっぱりに対して、きっぱりと応えた。

「ああ、はい、私、こういうなんか、少女じみたものは、好みませんので」

はあ。ほいそうですか、ってなもんだい。さすがにムカッと来た、なんだこの失礼な娘は。

話はもうおしまいだ、とばかりに、グラスの棚の方へ逃げて、一つを取って磨き始めた。

必要になったら連絡してもらってかまわないのですが、と、何やら紙片を渡そうとする。用意してきたものらしかった。

「寮の電話番号です」

悪気も何もない、つぶらな真っ直ぐな目・・・あああ、だからどうだっていうんだ。その紙片は、お返しした。

妙に鮮やかに覚えている。

あれから、かれこれ、二十年近い。

どうしているだろう、あのコ、そして、あのコも。

プロフィール

今も夢見る

Author:今も夢見る
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

願ってはいましたが叶うとは思っていなかった、海を眺めながらの暮らし。

朝はじめてのコーヒーは、バルコニーで。

ルージュは、シャネルの赤。ずうっとそう。きっとこれからも。

・・・ちょっと、かっこよすぎる。

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