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返事の中までKUONです。
 察しの言葉
山百合の君(すこしイヤミな言い方(笑))、に関して書いた記事について、疑問点や「~ではないか」の秘密コメントをいただきました。

そこには「山百合」は日本古来の種であり、私が書いた「バチカンの国花」あるいは「聖母マリアの純潔をあらわす」という花は、

「ニワシロユリ(Lilium candidum、英名 Madonna lily)はバルカン半島および西アジアを原産とし、花はテッポウユリに似て白いが短めで、葉は細い。茎は 1.2-2m にまで生長する。またバチカンの国花である。 」

=マドンナ・リリーではないですか、という、懇切なご指摘が書かれていました。花に毒があるとは自分は(不勉強なのかも知れないが)聞いたことが無いです、とも、書いておられました。私は、イヤな秘密コメントだわ、とは、この方には全く感じないで、毒云々のことは、仰る通りと思い、調べても見、自分の記事のその部分を、これを書いた後にも、削って、かつ、お詫びもそこに記そうと考えています。

そうしたって、毒があるって書いてしまったではないか、とお責めの向きもおありかと存じますが、それについては、自分のミスであったと認めるが、だからといって(かなり強引ではある、ここ)美智子さまに申し訳ないことをしてしまった、ヨヨヨ、とは、ならない、ワタシの対・こーごーへーかへの気の強い嫌悪感に変化ないとは申し上げます。あの方は毒まみれ。事実、ユリの花に毒は無いにしても、自分の責任でもって書くワタシには、あのお方は、毒婦です。無茶なこと書いてる? ここは、もしかして、無茶かも。

山百合の一首については、この先に書こうと考えております、それで、多少、わかっていただけるといいなあ、とも。

お花に罪をかぶせてしまったことは、花に謝ります。ごめんなさいね、ユリは、好きではないが、美しい花ですね。

もう一点、〇さんは、その百合の咲く時期についての疑問を、きちんとした論拠でもって、お示し下さいました。実はここは、私が記事中に取り上げなかったこと自体がミスであり(ミスというか、言葉足らずだったですね)、以下の、これも私の記事でありますが、以下を読んで頂くことで、ここへの??は、おわかりいただけるのではないかと。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昭和天皇実録の一部を訂正 陛下(今上)のご指摘で

2014.10.23 19:24

 >宮内庁の風岡典之長官は23日、昭和天皇実録で、昭和天皇が昭和35年7月1日に香淳皇后とともに東宮御所を訪れ、初の皇孫となった現在の皇太子さまに会った際のことを詠んだとしていた「山百合の花咲く庭にいとし子を車にのせてその母はゆく」の御製(お歌)の情景が別の月日、場所の情景だったことが分かり、訂正したと発表した。

 御製を紹介した新聞記事を読んだ天皇陛下が「『山百合』というのは東宮御所ではなく那須御用邸ではないか」などと指摘され、間違いが発覚。実際には、昭和天皇が同年8月6日に那須御用邸の2階から、現在の皇后さまが皇太子さまを乳母車に乗せて庭を通りかかったのを見て詠んだものだったという。

 風岡長官は「編集過程で思い込みがあり、資料を十分に精査せずに記載してしまった」と釈明。両陛下にも謝罪したという。
http://www.sankei.com/smp/life/news/141023/lif1410230026-s.html >


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「知恵蔵miniの解説

昭和天皇実録

昭和天皇の生涯をまとめた唯一の公式記録集。2014年9月9日に発表された。全61冊、計約1万2千ページ。宮内庁が、側近の日誌や公文書など3千点余りの資料をもとに、1901年の誕生から89年の死去、大喪の礼までを時系列にまとめた。1990年から編さんが始まり、終戦の前年まで8年近く侍従長を務めた百武三郎の日記ほか新資料の発見などで2度完成時期が延長され、完成までに24年5カ月が費やされた。宮内庁では、14年9月9日から同年11月30日(予定)まで、資格不問・先着順で「写し」の特別閲覧を実施する。
(2014-9-10)」


唯一の公式記録集なのだそうです。

その中の一部分の誤りを、今上陛下が見つけられ、指摘されて、訂正されたことを、宮内庁の(当時)風岡長官が発表、両陛下に謝罪したという。

どう、間違っていたか。

・昭和35年7月1日に昭和天皇が香淳皇后とともに東宮御所を訪れ、初の皇孫となった現在の皇太子さまに会った際のことを詠んだとしていた「山百合の花咲く庭にいとし子を車にのせてその母はゆく」の御製(お歌)の情景が別の月日、場所の情景だったことが分かり、訂正したと発表した。

・御製を紹介した新聞記事を読んだ天皇陛下が「『山百合』というのは東宮御所ではなく那須御用邸ではないか」などと指摘され、間違いが発覚。実際には、昭和天皇が同年8月6日に那須御用邸の2階から、現在の皇后さまが皇太子さまを乳母車に乗せて庭を通りかかったのを見て詠んだものだったという。

↑ のことを、

「編集過程で思い込みがあり、資料を十分に精査せずに記載してしまった」

と、風岡氏は釈明。

戦後15年も経って、皇孫も誕生して、落ち着いていた(と思われる)、当時の内廷。

皇室の歴史的には、けっこう重要な場面であろうに、と、不思議に感じます。浩宮は、ともかく、いずれの天皇になる子どもとして、生まれてきています。

動画も存在します。

で。

あの動画のシーンは、いつ、どこの、設定なのでしょうか。

「皇室の皆さまが愛する」とタイトルにある通り、動画中のここは、那須の御用邸と思われる。

であるなら、訂正された後の内容、

昭和天皇が同年8月6日に那須御用邸の2階から、現在の皇后さまが皇太子さまを乳母車に乗せて庭を通りかかったのを見て詠んだものだったという

これとは、趣が違う気がします。

動画では、那須の御用邸で、昭和の両陛下と、皇太子夫婦(現・今上夫婦)と、浩宮ナルさんが、集っておられたり、乳母車にナルさんを乗せて移動したり、されています。

二階から美智子さんとナルさんを見た・・・乳母車にナルさんを乗せて、庭を通りかかったのを見て、昭和帝が詠まれた・・という場面ではないように思えます。

違うよね。

御製自体は、風岡さんの釈明に添っている、そんな情景に見える、と言うことになりますので、私が(そして多くの方が)感じた違和感通りになって来る。

のではないか。

陛下は、見送っておられるのです、御製の中では。

動画のごとく睦んではおられない。

御用邸でご一緒に時を過ごされて、幾つかの場面がおありだったでしょう。

そうだとして、昭和帝が「うた」に詠まれたのは、掲出歌の場面だった。

そんな風に、考えるわけです。

うたにするには、やはり「このことを」という必然性、気持ちの高まり、というものが、ある。

と考えるのは、自然なことのよう。

別バージョンの「実は」があっても、驚きません。

「精査しないで記載してしまった」ことも、他に、無かったとは思えません。

あえて、事実でないことをしたって、そんなには分かんないだろう、とか。

全61冊、計約1万2千ページ。宮内庁が、側近の日誌や公文書など3千点余りの資料をもとに、1901年の誕生から89年の死去、大喪の礼までを時系列にまとめた。1990年から編さんが始まり、終戦の前年まで8年近く侍従長を務めた百武三郎の日記ほか新資料の発見などで2度完成時期が延長され、完成までに24年5カ月が費やされた。

全61冊、計約12000ページ、24年余の歳月をかけて作られたという「昭和天皇実録」。何人の人が関り、また、何人がこれ、読んだのでしょう。今上さんは、上記の「誤り」を、たまたま、新聞紙上に一部切り取って掲載された記事によってお読みになり、結果、宮内庁はそこの「誤り」について認めた。

・・・「平成天皇実録」なるものも、いずれ、世に出されるのですかしら。内容はどんなかな・・むかしなら不敬罪にあたるようなことばっかり書いている私なんぞは、とうていうなずけないような内容になるのは、目に見える。

父君のなんとかを受け継いで、くまなき慰霊の旅に身を捧げられた、とか書かれても、奥方と共に巡った地の上に、赤ピン青ピン、制覇の証のごとくブっさしていた、とは、書かれないだろうなあ。昭和天皇は「戦争責任」を問われておられたが、今上に「天人相関」やら、言いかけるヒトが、おわすや否や。皇后さんは「異常気象が多いので」と、しらっと云うておられた。カンケイ無いものね、静養はするしピヤノは弾くし、仮にも天皇である夫を、唯一,操り得るお方、無敵です。

ま。

ここで、KUONの私感としての「山百合のうた」を書かせていただきます。

へ理屈こねる気は無く、無理やりなことを言うつもりもない。

私は、美智子さんが、結婚前夜に、マリアのような純白のベールを頭にいただいた写真を、特別に親しくて自宅へ入ることを許していた新聞記者に撮らせていたことを、普通でないと感じていました。その、花嫁のごときベールの写真が、「美智子嬢が皇太子の妻に決まった」記事に使われたのです、裏では、この写真を使わないで、もう終わりだわ、の、母と娘の修羅場のあったことも、後には知られました。

入内するとて実家を後にする美智子さん、その時にその記者は、正田家の内部にいたのでした、なんでかは知りませんが。

入内後とは考えられない地味なスーツ(?)の姿で、地味と呼べるタイプの百合の花を支えて写っている写真を、妙に記憶に残していました。

詳しくはうまく言えません。ただいつも思っていること、

日本語は察しの言葉、すべてを言わないで匂わせる言葉、和歌や短歌や俳句などは、短い詩形のゆえに、少しの言葉で示す言葉、胸の底にある思いを、何かに託したり掛けたりすることで、伝えようとする、できる言葉群。

うたは、読む方の人間に、真意や本意や、を・・・くみ取ってもらう形の、文芸。

昭和天皇の「山百合」のうたを私は、以下のように、読ませていただきます、やはり。。

   山百合の花咲く庭にいとし子を車にのせてその母はゆく

山百合、は、山の、百合。本来そこにあるべきでない、百合。今の感覚ならさべつ、とも言われるか。しかし、否定されているが、普通に考えてみて、美智子さんが「受洗はしていない」とされる方が、不可解。昭和の皇室に入って来たのは、山の百合。百合という花の名は、その花を国花とするキリスト教の国家のあることを、内包してのイメージ、象徴的に使われている、読み手はそれを、個々に感じて行く。それが、うたの世界。

絶対的な解釈は、無いのです。

息子は、その者と、「普通の家庭のように」シアワセにマイホームの中で、皇孫を育てるという。

・・・天皇は、後姿を、黙って眺めおろしておられた。

それ以外には、どうするすべも、持っておられなかった。

〇〇さん、ありがとうございました。

いっしょうけんめい書きました(笑)。



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 *  分類 : 皇室のことなど
自動通知機能 : -  *  伝言 : 11  *  記事編集  *  2018年08月31日(Fri) 18時31分
 
山百合の君(すこしイヤミな言い方(笑))、に関して書いた記事について、疑問点や「~ではないか」の秘密コメントをいただきました。

そこには「山百合」は日本古来の種であり、私が書いた「バチカンの国花」あるいは「聖母マリアの純潔をあらわす」という花は、  リリーではないですか、という、懇切なご指摘が書かれていました。花に毒があるとは自分は(不勉強なのかも知れないが)聞いたことが無いです、とも、書いておられました。私は、イヤな秘密コメントだわ、とは、この方には感じないで、毒云々のことは、仰る通りと思い、調べても見、自分の記事のその部分を、これを書いた後にも、削って、かつ、お詫びもそこに記そうと考えています。

そうしたって、毒があるって書いてしまったではないか、とお責めの向きもおありかと存じますが、それについては、自分のミスであったと認めるが、だからといって(かなり強引ではある、ここ)美智子さまに申し訳ないことをしてしまった、ヨヨヨ、とは、ならない、ワタシの対・こーごーへーかへの気の強い嫌悪感に変化ないとは申し上げます。あの方は、毒まみれ。事実、ユリの花に毒は無いにしても、自分の責任でもって書くワタシには、あのお方は、毒婦です。無茶なこと書いてる? ここは、もしかして、無茶かも。

お花に罪をかぶせてしまったことは、花に謝ります。ごめんなさいね、ユリは、好きではないが、美しい花ですね。

もう一点、〇さんは、その百合の咲く時期についての疑問を、きちんとした論拠でもって、お示し下さいました。実はここは、私が記事中に取り上げなかったこと自体がミスであり(ミスというか、言葉足らずだったですね)、以下の、これも私の記事でありますが、以下を読んで頂くことで、ここへの??は、おわかりいただけるのではないかと。


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文字色昭和天皇実録の一部を訂正 陛下(今上)のご指摘で

2014.10.23 19:24

 >宮内庁の風岡典之長官は23日、昭和天皇実録で、昭和天皇が昭和35年7月1日に香淳皇后とともに東宮御所を訪れ、初の皇孫となった現在の皇太子さまに会った際のことを詠んだとしていた「山百合の花咲く庭にいとし子を車にのせてその母はゆく」の御製(お歌)の情景が別の月日、場所の情景だったことが分かり、訂正したと発表した。

 御製を紹介した新聞記事を読んだ天皇陛下が「『山百合』というのは東宮御所ではなく那須御用邸ではないか」などと指摘され、間違いが発覚。実際には、昭和天皇が同年8月6日に那須御用邸の2階から、現在の皇后さまが皇太子さまを乳母車に乗せて庭を通りかかったのを見て詠んだものだったという。

 風岡長官は「編集過程で思い込みがあり、資料を十分に精査せずに記載してしまった」と釈明。両陛下にも謝罪したという。
http://www.sankei.com/smp/life/news/141023/lif1410230026-s.html >

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「知恵蔵miniの解説

昭和天皇実録

昭和天皇の生涯をまとめた唯一の公式記録集。2014年9月9日に発表された。全61冊、計約1万2千ページ。宮内庁が、側近の日誌や公文書など3千点余りの資料をもとに、1901年の誕生から89年の死去、大喪の礼までを時系列にまとめた。1990年から編さんが始まり、終戦の前年まで8年近く侍従長を務めた百武三郎の日記ほか新資料の発見などで2度完成時期が延長され、完成までに24年5カ月が費やされた。宮内庁では、14年9月9日から同年11月30日(予定)まで、資格不問・先着順で「写し」の特別閲覧を実施する。
(2014-9-10)」


唯一の公式記録集なのだそうです。

その中の一部分の誤りを、今上陛下が見つけられ、指摘されて、訂正されたことを、宮内庁の(当時)風岡長官が発表、両陛下に謝罪したという。

どう、間違っていたか。

・昭和35年7月1日に昭和天皇が香淳皇后とともに東宮御所を訪れ、初の皇孫となった現在の皇太子さまに会った際のことを詠んだとしていた「山百合の花咲く庭にいとし子を車にのせてその母はゆく」の御製(お歌)の情景が別の月日、場所の情景だったことが分かり、訂正したと発表した。

・御製を紹介した新聞記事を読んだ天皇陛下が「『山百合』というのは東宮御所ではなく那須御用邸ではないか」などと指摘され、間違いが発覚。実際には、昭和天皇が同年8月6日に那須御用邸の2階から、現在の皇后さまが皇太子さまを乳母車に乗せて庭を通りかかったのを見て詠んだものだったという。

↑ のことを、

「編集過程で思い込みがあり、資料を十分に精査せずに記載してしまった」

と、風岡氏は釈明。

戦後15年も経って、皇孫も誕生して、落ち着いていた(と思われる)、当時の内廷。

皇室の歴史的には、けっこう重要な場面であろうに、と、不思議に感じます。

動画も存在します。

で。

あの動画のシーンは、いつ、どこの、設定なのでしょうか。

「皇室の皆さまが愛する」とタイトルにある通り、動画中のここは、那須の御用邸と思われる。

であるなら、訂正された後の内容、

昭和天皇が同年8月6日に那須御用邸の2階から、現在の皇后さまが皇太子さまを乳母車に乗せて庭を通りかかったのを見て詠んだものだったという

これとは、趣が違う気がします。

動画では、那須の御用邸で、昭和の両陛下と、皇太子夫婦(現・今上夫婦)と、浩宮ナルさんが、集っておられたり、乳母車にナルさんを乗せて移動したり、されています。

二階から美智子さんとナルさんを見た・・・乳母車にナルさんを乗せて、庭を通りかかったのを見て、昭和帝が詠まれた・・という場面ではないように思えます。

違うよね。

御製自体は、風岡さんの釈明に添っている、そんな情景に見える、と言うことになりますので、私が(そして多くの方が)感じた違和感通りになって来る。

のではないか。

陛下は、見送っておられるのです、御製の中では。

動画のごとく睦んではおられない。

御用邸でご一緒に時を過ごされて、幾つかの場面がおありだったでしょう。

そうだとして、昭和帝が「うた」に詠まれたのは、掲出歌の場面だった。

そんな風に、考えるわけです。

うたにするには、やはり「このことを」という必然性、気持ちの高まり、というものが、ある。

と考えるのは、自然なことのよう。

別バージョンの「実は」があっても、驚きません。

「精査しないで記載してしまった」ことも、他に、無かったとは思えません。

あえて、事実でないことをしたって、そんなには分かんないだろう、とか。

全61冊、計約1万2千ページ。宮内庁が、側近の日誌や公文書など3千点余りの資料をもとに、1901年の誕生から89年の死去、大喪の礼までを時系列にまとめた。1990年から編さんが始まり、終戦の前年まで8年近く侍従長を務めた百武三郎の日記ほか新資料の発見などで2度完成時期が延長され、完成までに24年5カ月が費やされた。

全61冊、計約12000ページ、


疑問は続きます。

この項、途中です、後に続きます.
 *  分類 : 未分類
自動通知機能 : -  *  伝言 : 0  *  記事編集  *  2018年08月31日(Fri) 16時43分
 山百合のひと、異界のもの。
幾つか前の記事に、昭和の陛下のお子さまがたについて書いた時。

皇嗣である皇太子(おかしな言い方ですが)のツマとして、戦勝国の采配により、「ヤマユリ」の女を押し付けられて、と。世が世であれば即、コワい方々がやって来て、こっちへ来いとばかりに引っ立てられて、非国民だとかなんだとかギリギリ責められるみたいなことを、つづりました。いまは、不敬罪って無いのですよ。不敬罪とは、いってみれば、やりたい放題、畏れ知らずの千代田の住人から、私も含めた国民に対しての「罪」です。

・・・質問がありました。「ヤマユリ」って何のことでしょうか、と。

下記は、その質問への、答えになるでしょうか。自分の過去記事です、ほぼその時のまま、本当に不要、と思われる部分にだけ、手を入れました。

昭和天皇は、祖母上に向けては二首、香淳皇后さまに二首、池田厚子さんの病気快癒を喜ばれて一首、東久邇茂子さんの遺児、信彦さんがお子を持たれた(陛下には、外孫ですが初曾孫)時に一首。正確でないかもしれませんが、お身内を詠まれた御製は、ほんとうに少ないのです。国民に向けてのおうたは沢山あります。どの時も、痛みをもって詠まれています。

天皇としては大きく気になることでいらしたであろう「お世継ぎ」のこと。皇太子明仁の、もうけられる親王に対しては、特別な思いもおありだったのでは、と、普通に思うのですが、浩宮をお詠みの御製は、二十歳の成人式の折の一首のみ(今日、発見したので、いちばん後に引かせてもらいます。

それ以外には、何年か前に触れたように、以下のように、ただ一首しか、無かった・・・。


・・・・・昭和天皇の御製の「やまゆり」についての私的考察・・・・・・・・・。


     山百合の花咲く庭にいとし子を 車にのせてその母はゆく


・山百合は白い百合です。

・白百合は聖母マリアの純潔をあらわす花、花言葉もそれに因んでいて、そしてカトリックの聖地バチカンの、国花でもある

・香りが強すぎるほど強い花・・・花の個性の強さとも思えます。8月31日 KUON註:ユリは匂いの強い花も多いですが、匂いはこの場合、ことさらに云われるべきものでないとさせていただきます。

・花にも葉にも毒を持つとは、言い慣らされていることであって(8月31日、KUON註:初めに書いた時は確固たる何かがあったはずなのですが=いいかげんなことと分かっていては書きたくない=毒については、花そのものに関しては、今では確固たる信を持ちえず、この部分はわたしKUONの勇み足、あるいは何かこう書きたい不穏な理由があったとも思え、とにかく、花に対しては、申し訳なかった、ごめんなさいと謝罪します、あえて削除しないで自省の種とします(そうしようと、思っております).、植物学者であらせられた昭和天皇は、むろんのことに、それをご存じだったであろう。(同上)陛下は「毒」は感じておられたや、否や。

・うたを詠まれる時には、正確に言葉を選ばれる陛下であられた。

・・・以上のことは、私の記事に対して読者さん(賛同者と感じています)が寄せて下さった、言葉の群れ。

強引に、こじつけて決めつける意図は「無い」ので、あえて、今は、皆さまやわたしKUONの私感としておきます。


以下は、まことのKUONの私感です。

どこをどう読んでも、2月の23日に生まれた浩宮を、昭和の両陛下がご覧になったのは、初めに設定されていた「7月」にせよ、今上が誤りを見つけて宮内庁が訂正したと発表された「8月」にせよ、いくらなんでも、遅すぎはしないか、と、まず、感じたのです。

さまざまな儀式もあったのではないかと、モノ知らずの身も想いますし、片方だけのベビーシューズをむき出しに、親王のお生まれになった病院を、天皇皇后が見舞われるなどということは、当時は無かった。のでしょうが。

単に、それまでにも会っておられたことが、報じられなかっただけなのか。

美智子さんの実家の母上は、めったに会えなかったと喧伝されたのは偽りだったと今ではわかっています、妊娠中も、入内した長女さんのところへ、アドバイスをしに、また何かの手伝いに、なんとかいうでっかいアメリカ車で、通っておられた。

夫人は、長女美智子さんととその夫君を、実家へ迎えいれて、得意の中華料理をふるまってもおられた。皇太子が妻の実家へたびたび出入りする慣習も、皇室には無かったなかで。

オワダさんとやらの夫婦も、入内させた娘が子を産んだ際に、両陛下より先んじて見に行って、会見まで開いていましたが。

浩宮は、美智子さん夫婦の愛児である前にまず、皇孫、公人なのであった。

認めたくは無いけれど、生まれた時から浩宮は、皇統を継承するべき立場でした。

天皇の孫。皇太子の息子。

そのナルちゃんが、生まれて何か月も、天皇と皇后に、どんな形ででも、会わずにいた、ということなのでしょうか。

確信が持てないので、今はここは疑問形です。


そして那須の御用邸で、両陛下は皇孫と会う機会を持たれた。

前記事でご紹介した動画は、そんな「ほほえましい」場面をも、収録しています(KUON(註・申し訳なくもここではいま、見ていただけません)。

美智子さんは、遠慮がちに顔を伏せ気味に、浩宮を抱き、乳母車に載せています。

陛下は温顔を保っておられ、皇后さまも笑みを浮かべておられます。


・・・この時、陛下はともかく、皇后陛下は、皇孫を、抱っこなど、されたのでしょうか。

香淳さまがお子さまを抱いて写っておられる写真は、沢山あります。

何人ものお子さまをあげられたお方、浩宮を「抱いてみたい」と、思召さなかったでしょうか。

それは、言い出しにくかったか。

遠慮されたか。

ミテコの子は抱きたくも無かったか(少し前までの設定では、こんな感じにも悪役を振られておられた香淳さまでいらっしゃった)。

美智子さんはナルちゃんを、抱いて欲しくない意志を持っていたか。意志を通し抜いたか。

自分でイヤとはいえなくても、専属のマリオネットを抱えておられたのだから、その口を借りれば、何でも通ったはず・・

実際には、香淳さまが、浩宮を膝に抱いてにこやかに笑っておられる写真はあります、美智子さんは「いじめられているヨメ」役で、うつむいたり横向いたりしておられますが。


・・御製を読ませていただき、睦まじげな動画の様子を何度も見返し、私は、やはり、不思議だったのでした。

前記事にも書いていて、われながらしつこい(笑)のですが。

今上ご自身が、このうたは「山百合」とあるし、昭和天皇秘録にある「東宮御所」でなく、那須の御用邸で詠まれたのではないか、と、お声をあげられたという。

しかし編纂に励む資料室では、「7月1日に昭和帝が」と、記載するに足る何かの事実を元に、記載するに至ったのではないかと考えるのが、妥当ではないか?。

忙しく週刊誌や月刊誌を作っている「現場」、とは、全く異なる環境が、そこに、あったのであって。

何年もかかって世に出された、数十冊に及ぶ本。24年以上もかかって作られています。

チェック機能も大変厳しいものだったろう・・・と、考えます。

その中に、このことが起こったのですね。

わたし思いますに。

動画の撮影も含めて、那須の御用邸での両陛下、皇太子夫婦と皇孫ナルちゃん。

その方々の上には、短時間とはいえ、それなりに複雑な思惑が存在した、と、考えてたって不思議では無い。

仲良さそうに集まって、写真などを撮らせていただけでない、別の時間もあったはず。

・・・思いますに。

発表された通り。

昭和天皇さまは、御用邸の二階から、下を。

庭を歩いて行く美智子さんを、見降ろされたのだろう。

たまたま、そんなことだったのかも知れません。上から見られているなどと、皇太子の子の母は、思っても見なかったのかもしれません。

つまり、無防備。油断の中にあった。「素」のままで、乳母車を押していた。

その美智子さんを、昭和帝は、詠まれたのではなかったか。

何かどこか、違う者。

皇室の中心に入って来ていながら、どうしても「異界」の者。

皇太子の妃、皇孫の母として、大きく違うサムシングを秘めている、抱えている、そのうちに正体を現して来るであろう・・・者。

そんな風にお感じに、実際になられたかどうか。

山百合と言う花の名を、ここで用いられたこと。

優しげに微笑んでいる時の美智子さんでない、何か大きな不穏を背負って乳母車を押して行く、後ろ姿を詠まれたこと。


思い過ごしでしょうか。

まさか、美智子さんのあの、ひらぺったいアタマの、おでこのあたりの両側に、何やらおそろしげな、おぞましげな「角」みたいなモンが生えていて、それは素の状態の美智子さんの、後ろからでも見えてしまっていた・・・・・なんてことは、そんなこつは、なかでしょうなあ。

最後。オカルトじみた話に持って行って、今夜のしつこい話は終わらせていただきます。

現在の徳仁氏、むかし「ナルちゃん」と呼ばれたひとの、成人の折に、母上は、自己陶酔、長男へのだぼだぼの執愛にまみれた長歌を詠んだ、アゲる人はやんやと上げ、そうでない人は胸やけがして横向いた長歌を。

昭和天皇は、以下の御製を、残しておられます。

「成人式」御製。

     初春におとなとなれる浩宮の たちまさりゆくおひたちいのる


しっかりしてや、しっかりせんなあかんのやぞ。と。どんなお立場の上からも、仰れなかったのでしょう・・・。
 ・・・


 *  分類 : 皇室のことなど
自動通知機能 : -  *  伝言 : 1  *  記事編集  *  2018年08月29日(Wed) 22時21分
 墓じまい、などの話題。
昨日の東京地方での雨、雷の凄まじさを、今朝のテレビの画面で知って。

びっくりしました。どんな思いでいられただろうと想像してみても、あんな稲光や落雷に遭遇したことが無く。不謹慎な申しようながら、夏の始めからずっと、日替わりで異様な気象に遭っている気がしています。

ちびまるこちゃんの作者の53歳での死にも驚きました。娘たちが読みたがっていたので、毎月掲載紙を買い与え、単行本もほぼすべて買い、母親だった私も一緒にあのまんがを読んでいました。テレビアニメになったものは観ていません。テレビのアニメは好きでない・・と、どこへでも強引に自分の好みを口にしないでいられない、この性分。

ご両親に先立たれたのではないよね、息子さんもまだ若い、など、そちらの方面に気が回りました。53歳。信長の時代ではない、いま。もったいないな、の思いが、強いです。長い間の闘病生活だった、とも。


墓のことを書こうとしていたのです。さくらももこさんと同年代である、漫画家の西原理恵子。そのサイバラが、最新の新聞漫画で、墓じまいについて描いていた。四国在住のお兄ちゃんが来て、というフリでした。サイバラの出している本は、漏らさずすべて、買っています、でも、引っ越しの時に置いて来てしまったものもある・・「ちくろ幼稚園」「ユンボ君」「アジアパー伝」など。かなりの量。

奈良の家のリビングの本棚に並べてくれているのを、前回帰った時に見ました。
孫娘が読んでくれるといいな、「アジアパー伝」。

サイバラとお兄ちゃんは、仲のいい兄妹、いろんな中を、ぐわぁあっと通り抜けて来たようで、お兄ちゃんとその奥さんは、子連れでアル中のだんなとの修羅場を生きながら漫画の仕事を絶対として続けていたサイバラを、ずいぶん、助けてくれたようです。

サイバラは、実の父親は、お腹の中にサイバラのいる妻と離婚の後、酔っぱらって溝に落ちて死んだ、というはじまり。母親の再婚相手の義理父は、彼女をとても可愛がり、理解してくれる人であったが、ばくちと酒に身を持ち崩して、サイバラが貯めていたお年玉等の貯金を最後、持ちだして「最後の勝負」に賭け、とうぜん、負け、サイバラの大学の入試の日に、首を吊って死んだという、本人いわくズブズブのくず。お母さんは苦労され、ちょっと子守を手伝いに来て、と頼まれてそのまま、娘の家、東京にいついてしまった、という風に、紹介されています。綺麗なお母さんです。

さて、いつもながら前振りの長いKUON(笑)。新聞漫画に移行しましょ。

お兄ちゃんと、墓じまいの話になった。お兄ちゃんは、

「うちは子ども、大きくなったし、どこへ行くやら知れん」

と言う、妹うなずき、

「うちも、外国へ行くかもわからん」

ビール飲みながらの兄妹談義のようです。この兄妹の母親、九十歳前後(だと思う)のお母さんは、もとは土佐の漁師の娘。暮らしぶりが落ち着いて来られた頃に、故郷の海の見えるあたりに、自分の墓を建てられた、と。かなり以前のサイバラ漫画に描かれていました。

自分はここに眠る、自分の落ち着き先だ、と。

兄妹の会話は続く。お互い、男の子と女の子が一人ずついて、学校を出てしまったりもう少しだったり。その子たちに、祖母の墓は見させられないよね、と、兄も妹も話しています。

自分たちは母親の墓を見てやれるけど、自分の子どもたちには、おばあちゃんの墓をみさせられない、と。

西原理恵子は、戦場カメラマンだった夫と、離婚した後、懸命にアル中を克服して「戻って来た」元・夫が、アル中からは逃れられたのに、癌に侵されて。余命わずかになった元・夫と、二人の子どもと(いろいろあり過ぎて娘の復縁には断固、反対だった母親も少しまぜて)、最後の家族としての半年間を大切に過ごしました。

やっと初めに好きになった彼、に戻ってくれた、子どもたちを強烈に愛おしむ父親としてそばにいてくれるようになった、その元・夫を、最後まで看取って。

世界中をカメラを抱えて走り回った元・夫、鴨志田穣の遺骨を入れた瓶を持って、二人の子どもと共に、いろんな国へ行って、いろんな国に、少しずつ、遺骨を撒いて回った。・・たぶん、鴨ちゃんの墓は無いのでは、少なくともまだ、と、勝手に私は考えているのですが。

兄に向って妹は、自分たちの子どもらには、おばあちゃんの墓まで見させられないよね、みたいに言い、墓じまいについてなど、匂わせる。ここからが、サイバラ漫画の個性的なところ。サイバラ大好き、と思わせるところ。

いいや、と、お兄ちゃんは、激烈な顔になる(どんな顔や・・・)。ばあさんの墓じまいは要らん、と。

「何年に一度」と、お兄ちゃんは言う。「あのへんは」と言う。

大きい台風と大きい波が来る。お兄ちゃんは言う。妹、かたづを呑んで兄ちゃんの次の言葉を待っている。

そいで、ぜ~んぶ、さろうて行ってくれゆうきに。

・・・そこで漫画は終わります。

ホントは、このお盆に婚家の墓詣りの折に見た、新しいお墓の誕生の場面と、舅の弟さん(夫の叔父)の墓じまいが、強引になされていたことについて、書くつもりだったのですが。ついつい、ここまで来てしまいました、今日はこれにて失礼いたします。


さくらももこさん、作品はずっとずっと、残りますね。やすらけく、お眠り下さい・・・。

 *  分類 : 日常
自動通知機能 : -  *  伝言 : 3  *  記事編集  *  2018年08月28日(Tue) 10時07分
 脈絡なく。
西郷どんのドラマも、愛佳那さんが出なくなったので毎週は見ていなかった、けど、昨日は観ました。鈴木亮平が、どしっとして西郷さんらしくなってきている、瑛太もとってもいい感じ。私にはあまり良さのわからなかった龍馬役の小栗旬、やっぱりうまいこと、かっこええやん、と、眺めていました。みんな、すごいなあ。

いや。岡田以蔵のことが気になっていたのです。昨日書いた、昭和天皇の晩年の本音、おそらく本音、で、そば付きの侍従氏は、まあ、ああ言った、そば付きのヒトは、ボスのために存在するものですものね、つまりは。30年ほど前のご発言、当時はまだ、あの戦争でエラい目に遭った、人生、根こそぎひっくり返された方々が、普通に街を歩いて、普通に生活しておられた頃でした。

私は、裏からくるコメントで、昭和天皇にまで噛みつくのか、なあんて言われたって、なんじゃこりゃあ、と、実際に感じたので仕方が無いのです。噛みついてなんかいません。ご立派な面もおありになったとは承知しつつ(風聞でね)、これ、聞かずに済んだ、先に死んでゆかれた方には、よかったかなあ、など、自分なりに思いは乱れた気がします。悔しい話と思いますもの。

で、そういった気分でいた時に、

龍馬もているドラマを見て。岡田以蔵は、このドラマに直接にはカンケイ無いのでも、散らばって行く思考(とか書くと知的っぽいであるかな(笑))の先っちょに,人斬り以蔵の辞世のうたが、ちょろりと顔を出しましたのです。
うた。以蔵の辞世のうた。

  君がため尽くす心は水の泡消えにし後は澄み渡る空


私の短歌の師は、青島で裕福に暮らしていた方、敗戦によって父親、妹二人、幼い弟と共に引き揚げて来られた。母親の骨壺を、揺れに揺れる引き揚げ船のハッチにまずは据えて、と詠んでおられました。

軍人であり歌人であった婚約者とは、万葉集のうたを暗号のように媒介にし手紙でつながっておられたなか、戦火の拡大により消息不明となり、引き揚げ後は、家族を食べさせてもらうため、父親の里の跡取り息子と、イヤも応も無く結婚。いとこ同士。
お嬢さん暮らしで馬車で学校へ通い専属の女中さんがついていたそうですが、帰国後の師は割木でご飯を炊く拙さを哂われて、から、未経験の暮らしの大変な渦に巻き込まれて行かれた。青島での成功者だった親戚の、命からがらの引き揚げに対しての目は、冷たかったそうです。師が女学校を出ていたという、そんなことすら。

脚が悪くていざって歩く、大姑である祖母、舅姑小姑、夫は気の弱い方だったらしく、酒量がどんどん増えて行き、酒を呑んで暴れる夫の手から、息子二人をかばいながら逃げ回る日々に、ぱったりと、生きて帰国して探しに来た元の婚約者と遭遇。その人は、ものもいわずに回れ右して去ってゆかれたと

舅姑を介護して実家の両親も見送って、きょうだいたちを結婚させ、その間もうたは止められなかった。次男さんの目が見えなくなり、高校生で完全失明。夫君はアルコール性の精神障害で、周囲からも強制的に詰め寄られて入院させた、経済的にも畑仕事ではどうにもまわらず、夜の街で雇われママになった、そのうち、小さな出版社で働くようになり、長年、編集長と呼ばれて過ごされた。元の婚約者もうたを続けておられたが、公の場所以外では言葉を交わすことも無かった方でした。

完全に失明した次男さんに鍼灸師の資格をとらせ、自分の職場で働いていた明るい娘さんを、ついに次男さんのお嫁さんに迎え、敷地内に息子夫婦の鍼灸院を建てて、自分は、男の子三人の孫の、保育園の送り迎えから家事すべて、しておられた。孫さん三人は賢いお子たちで、東大京大また東大と進み、やがて一番上のお子が、当時の大蔵省へ入った。

私の師はやはり、それが誇らしかったのでした。ムスコには、卒業証書も見られへんねけどな、と、控えめに嬉しそうにわらっておられた。そこへ私の姑がずけっと、

「くろうしやはったけど、大蔵省やったらもう、〇〇さん、左うちわや、お金の苦労ないな」

と、褒めたつもりの大失言、怒ったことの無い師が、

何を云わはるのん、それはないんと違いますか、

と、血相が変わった。

すぐに表情を戻されましたが、姑は、悪気はなかったのにのに、と、逆に不服顔。あの時は私、お母さん無神経やわと、言いました。
まあ、これは脱線。確かに、悪気ではなかったのでしょう。そういう方なんです。長い付き合いで、師も、飲み込まれたのだと思いました。

最後は幸せな老後を過ごされ、つつましく亡くなられたうたの師。こうしたいとかなんかしたいとか、自分のこといっさい口に出されなかった。でも、ご遺族は、よくわかっておられたのでした、死後に、心のこもった美しい歌集を発行、激しく一途で子思い、孫思いに生涯を捧げられた師に、報いてさしあげられたのでした。

この師は、皆がやさしくダマされていた当時から、美智子さん大嫌いだった、平成の即位の礼の時にも、完全に無視しておられました。

優柔不断に生きていたわたしの「覚醒」は、もう、ずいぶん後のことになってしまいました・・・。



 *  分類 : 日常
自動通知機能 : -  *  伝言 : 2  *  記事編集  *  2018年08月27日(Mon) 12時08分
 そんなのありですかぁ...
以下の記事を読みました。朝日新聞、毎日新聞、東京新聞などで。三日前、2018年8月23日のことです。

昭和天皇「細く長く生きても…」 元侍従の日記に発言

 昭和天皇が85歳だった1987年4月、戦争責任をめぐり、「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛(つら)いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」と発言したとされる側近の日記が残されていることが分かった。
 昭和天皇に長く仕えた小林忍(こばやししのぶ)侍従(故人)が記したもので、家族が保管していた。
 共同通信が小林氏の遺族から日記を入手し、23日、その一部を報道各社に公開した。小林氏は人事院の出身で、昭和天皇の侍従になった74年4月から、香淳皇后が逝去する2000年6月までの26年間にわたって日記を記していたという。
 それによると、昭和天皇が戦争責任を気にかける発言が記されていたのは87年4月7日の日記。「昨夕のこと」と記され、昭和天皇がお住まいの皇居・吹上御所で小林氏に語ったとみられる。

 日記には、小林氏がその場で、「戦争責任はごく一部の者がいうだけで国民の大多数はそうではない。戦後の復興から今日の発展をみれば、もう過去の歴史の一こまにすぎない。お気になさることはない」と話したことも記されていた。

「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛(つら)いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」


とか漏らされたという昭和天皇は、この3週間後、お誕生日の祝宴の際に体調を崩され、翌年の手術などを経て、89年の年初に逝去された。もうこのあたり、ほぼ西暦で語られます。

お生まれになった時、天皇は「神」ではなかった。大正天皇のお子さんとして生まれて来られた。第二次世界大戦の前後(途中?)から、「現人神」という「神」になられました。で、戦争に負けて「人間宣言」をされた、このあたりすべて、ご本人の意志その他ではなかったと考えます。

難しいことは私には論理的には語れません。そんなに詳しくありません。

今回、小林氏の日記の一部を知っての感想は、

「そんなあ。そんなのありですかぁ」。
 

です。一人の人間、ストレス多大な人生を送られた高齢男性としては、とても本音に近い、さもありなん、のお気持ちではありましょう。が、こんなこと言えるんですかぁ。な思いは、動きません。それは、天皇のお言葉に対してのみでなく。

日記には、小林氏がその場で、「戦争責任はごく一部の者がいうだけで国民の大多数はそうではない。戦後の復興から今日の発展をみれば、もう過去の歴史の一こまにすぎない。お気になさることはない」と話したことも記されていた。

この部分に対しても、そうです。

二十二歳年が下のこの侍従氏は、昭和天皇という方の傍に仕えて、少なくともチャラけていい加減な方ではなかったであろうその方が、こころ弱って口にされたのであろう「そんなこと」に対して。

非常に人間的な、思いやりのある対応をされたのかなあ、と、感じます。まあ、よくもそんなこと、言えるものですね、とも、強く思います。

わからなくはない。人は弱いものです。
昭和天皇は、奥さまには何も、本当の気持ちをさらけ出されてはいなかったと思われる。言いようも無かったでしょうし。受け入れるすべを持たない皇后さんでいらしたと推測されます。純な方でいらしたのは事実、しかし戦時中、対応の難しさに夜中も苦悶のうめき声を漏らされるご夫君に対して「うるさいわねえ」と不満をお持ちになったりもされた。甘いものを召し上がるのは止められなかった(皇后陛下ですから)、戦争が終わってすぐの、長男さん(今上)への手紙に、無心に無邪気に,「…飛んでいます、B29は立派です」と書いてやられたのが、昭和天皇の夫人でした。
非難はしていません。ただ、昭和の陛下も、夫として孤独でいらした。お子さま運もむずかしいものをお抱えでした。

幼いうちに一人の内親王を亡くされ。愛されたご長女は、戦中の辛苦をなめられた果て、多くのお子さまを遺して早逝された。次の内親王の夫君は、銀座のプロの女性宅で、ガスで。次の方は、お子さんを授からず、夫君は内内の承諾のもと、外に、血筋としての跡継ぎをもうけられた。皇嗣である長男の妻には、戦勝国の采配で「やまゆり」の女を受け入れざるを得なかった、こころ穏しい次男のもとへは、津軽の姫が嫁いでくれた、子を成すことは不可能であることを、はじめから呑み込んでの入内だった、ここは賢い妃で、決して前へ出てくることをしなかった、末っ子の内親王は、戦後のぱきぱきとした明るい結婚をしたが、一人授かったお子は、軽い障害をお持ちだった。障害があるからどう、という話ではありません。

父親としては、さまざまな思いをされたであろうことは、想像に難くありません。

でも、思う。

昭和天皇に戦争の責任が、あったか無かったか。そういうことでなく。あの時代の天皇であったことは、事実。

広島に一発、長崎に一発。原子爆弾を投下されて、戦争は終わった。それ以前に、どれだけの町が、戦火に焼かれたか。どれだけ多くの人が、焼かれて死んだか飢えて死んだか、どれだけ沢山の家が失われたか、家族もろとも消滅したか、馬や牛や犬も猫も死んだ。

生き残っても、生きて戦場から帰っても、すでにかつてのその人ではなくなっていた日本人が、どれだけ大勢いたか。あの時代の日本人だから、仕方がない? そうは思わない、そうであっても、そう思いたくない、なのに。

「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛(つら)いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」by・天皇
                                 
「戦争責任はごく一部の者がいうだけで国民の大多数はそうではない。戦後の復興から今日の発展をみれば、もう過去の歴史の一こまにすぎない。お気になさることはない」by・侍従


腑に落ちません。


以下は東京新聞です。

「長く生きても…戦争責任いわれる」 昭和天皇85歳 大戦苦悩

2018年8月23日 朝刊

 昭和天皇が八十五歳だった一九八七(昭和六十二)年四月に、戦争責任を巡る苦悩を漏らしたと元侍従の故小林忍氏の日記に記されていることが分かった。共同通信が二十二日までに日記を入手した。昭和天皇の発言として「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛(つら)いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」と記述している。 
 日中戦争や太平洋戦争を経験した昭和天皇が晩年まで戦争責任について気に掛けていた心情が改めて浮き彫りになった。小林氏は昭和天皇の側近として長く務め、日記は昭和後半の重要史料といえる。
 八七年四月七日の欄に「昨夕のこと」と記されており、昭和天皇がこの前日、住まいの皇居・吹上御所で、当直だった小林氏に直接語った場面とみられる。当時、宮内庁は昭和天皇の負担軽減策を検討していた。この年の二月には弟の高松宮に先立たれた。
 小林氏はその場で「戦争責任はごく一部の者がいうだけで国民の大多数はそうではない。戦後の復興から今日の発展をみれば、もう過去の歴史の一こまにすぎない。お気になさることはない」と励ました。
 既に公表されている先輩侍従の故卜部(うらべ)亮吾氏の日記にも、同じ四月七日に「長生きするとろくなことはないとか 小林侍従がおとりなしした」とつづられており、小林氏の記述と符合する。
 日記には昭和天皇がこの時期、具体的にいつ、誰から戦争責任を指摘されたのかについての記述はない。直近では、八六年三月の衆院予算委員会で共産党の衆院議員だった故正森成二氏が「無謀な戦争を始めて日本を転覆寸前まで行かしたのは誰か」と天皇の責任を追及、これを否定する中曽根康弘首相と激しい論争が交わされた。八八年十二月には長崎市長だった故本島等氏が「天皇の戦争責任はあると思う」と発言し、波紋を広げるなど晩年まで度々論争の的になった。
 昭和天皇は、八七年四月二十九日に皇居・宮殿で行われた天皇誕生日の宴会で嘔吐(おうと)し退席。この年の九月に手術をし、一時復調したが八八年九月に吐血して再び倒れ、八九年一月七日に亡くなった。
 小林氏は人事院出身。昭和天皇の侍従になった七四年四月から、側近として務めた香淳皇后が亡くなる二〇〇〇年六月までの二十六年間、ほぼ毎日日記をつづった。共同通信が遺族から日記を預かり、昭和史に詳しい作家の半藤一利氏とノンフィクション作家の保阪正康氏と共に分析した。
<お断り> 「小林忍侍従日記」からの引用、記述部分の表記は、基本的に原文のままとしました。
1987年4月7日の「小林忍侍従日記」。「細く長く生きても仕方がない」と昭和天皇が吐露した心情が記されている

◆心奥触れる「昭和後半史」
<解説> 昭和天皇の侍従だった故小林忍氏の日記には、晩年まで戦争の影を引きずる天皇の苦悩が克明につづられている。アジアの国を侵略した大日本帝国を率い、太平洋戦争の開戦と敗戦に臨んだ天皇の脳裏に刻まれた記憶が、最期まで頭から離れなかったことが改めて確認できる。貴重な「昭和後半史」だ。
 昭和天皇は「戦前も平和を念願しての外交だった」(一九七五年五月十三日)と吐露したり、「細く長く生きても仕方がない」「戦争責任のことをいわれる」(八七年四月七日)と弱音を漏らしたりしていた。戦時中、学徒動員された二十二歳年下で一侍従の小林氏に信頼を寄せ、胸中を直接、明かした。戦争責任を問う世評に神経をとがらせる内情がにじむ記述だ。
 アジアの国にも配慮を見せている。八〇年五月二十七日の記述には、国賓として来日した中国の華国鋒(かこくほう)首相に「陛下は日中戦争は遺憾であった旨先方におっしゃりたいが、長官、式部官長は今更ということで反対の意向とか」とある。小林氏は昭和天皇の考えに賛意を示すが、幹部が、中国侵略を正当化する右翼の反発を懸念し、封印してしまう。
 戦前の青年将校によるクーデター未遂で閣僚らが犠牲になった「二・二六事件」(三六年)があった二月二十六日は毎年、「慎みの日」としていた記述も多数ある。既に公になっているエピソードだ。「臣下」を失った悲しみは、癒えることはなかった。
 敗戦から七十三年。戦争の記憶が遠くなる中、昭和天皇が晩年、どういう思いで「大戦」に向き合ったのか、心奥に触れる価値ある日記だ。 (共同・三井潔)

自分のしらなかったことだって。なんとなく流されてしまった、と実際、言いたくたって。

責任とる、とらされるのが、トップというものでは、ないんですかぁ。

 *  分類 : 皇室のことなど
自動通知機能 : -  *  伝言 : 9  *  記事編集  *  2018年08月26日(Sun) 12時58分
 根尾ファン。
何年も前から大阪桐蔭高校の野球部のファンです。

藤浪クンの時代から。大阪から生駒山を超えて奈良へ帰る道筋に、その高校はあります。まったく「街」でない場所に。それはともかく。

始めから根尾クンが大好き。全身から何か違うものがみなぎっているのがわかる。

四ボールを見極めるのがうまい、ふつう一塁で止まるようなヒットを打って、たたたたっと二塁まで進んでしまう。あったりまえにホームランを打つ、ガッツポーズなんかしないで当たり前に帰って来る。投手でない時はショートを守って、エラーしない。

ピッチャー・根尾の時、まれに打ち込まれる時はあっても、全く気にしていないみたい、うんうんよしよし、んじゃあ、これで。と(?)バシッとストライクで仕留めている。他の選手が、状況が、よおく見えている、それでいてエラそーな感じ一切無く、あはははと笑っている。

アタマも性格も運動神経もいい。で、一番先頭にはいないヒト、根尾クン。学校内では、先輩からも根尾「さん」と呼ばれていたそうです(笑)。

それは、金足農業高校の吉田選手みたいなかっこいい男子ではないです。事実です。し、か、し。面食いを公言するワタクシですけど、根尾クンの、あの、孫悟空フェイスが、たまらん。

(面食いと言いつつわたし、いっとき「メリー・ジェーン」をうたう「つのだひろ」が、「いいいいいいわああああ、とニチゃってたりしてますた・・)

試合に勝って整列して、校歌を歌う時の、根尾クンのあの、嬉しそうな楽しそうな一所懸命な顔が、大好き。校歌をうたう根尾くん、を見たいがために、この夏もずっと、試合を見続けていました。テレビのこちら側で、ふほほほ、歌ってる唄ってる、と、頬、思いっきりゆるめていました。

子どもの時から野球に打ち込んでいたのは、これで「球児の夏」を終える、どの選手も同じと思う。どのチームも素敵だった、テレビ見ながらよく泣かせてもらいました。みな、がんばって戦って勝ち上がって、最後に残った二校が、の試合だったと思います。

その結果、

やったね、大阪桐蔭高校。史上初の、春夏二大会連続制覇。優勝。勝った勝った、おめでとう、よかったですね。黙っていようとも思いましたが、なんか、言いたくなって、書きました。









 *  分類 : 日常
自動通知機能 : -  *  伝言 : 2  *  記事編集  *  2018年08月24日(Fri) 09時01分
 すごい風です。
昨夜は早く寝入ってしまい、目覚めたら、さっきのことですが、いま、台風中です。

風の音がすさまじく、締め切った窓が風に押され続けて、ぶわん、ぶわんと、膨れたり引っ込んだりしています。海は真っ暗。空も。

救急車のサイレンが、下の方から聞こえます。何があったのか。

停電しているところもあるみたい、恐ろしい思いの中で今夜を過ごしている方もたくさんおられるでしょう。夕方早くに、神戸では、避難準備の報があったそうです。私の住まい近くでも、暗くなる前に「・・・の時は早めに避難を・・・」など、公の車が走り回って告げていたような。よく聞こえませんでした。

よくもまあ、今年は。台風も立て続けです。

今上ご夫妻は、今年も、八日間のご静養に出向かれたとか。じっとしてられない症候群の奥方は、じっとしていられないのですね。また、皆さまにピヤノ、聴かせてあげないといきませんしね、トレ・ビアン、と称えられないとね、夏は。どこへ行くか、天皇さんの意向はどうなのかな。肘つかまれて、押され歩くまま。

天皇さんが皇居にいなくても何も変わらない、すべて世はこともなし。

身の内の「心臓」が、ちょっと身どもも夏の静養、とか言っちゃって、茄子だか鰻ザクだかの別荘へもぐっちゃったりしたら。大変大変、いのちつながってくれませんが。

天皇が皇居にいなくたって、何の問題も無い、気にするな、ドンウォーリー、なんくるないさぁ。

なのなら、要るのかなあ、あの。

朝になって分かったら、こんな大変なことだった、と、なっていませんように。

いま、吹きまくっている風が、悲しいことにつながったり、していませんように。

いま、目があったらハムスター、くるくる黒い目をぱっちりと見開いて、見上げてくれました。大丈夫だよモカ子。きっとモカちゃんは大丈夫、心配いらないから、いつもみたいに、暴れていなさい。

もう一度寝ます。大変なことになっていませんように。

すごい風です。


 *  分類 : 日常
自動通知機能 : -  *  伝言 : 2  *  記事編集  *  2018年08月24日(Fri) 00時50分
 愚痴、の気がします。
愚痴か、わるくちか、判断付きかねる話です。

長年の習慣で、今も月に一度は奈良の婚家のお墓へ詣でます。レンタカーを借りて、車の必要な用はその日に済ませられるので、そうしています。姑の家へも行きます。

先日も「あんた、うちの墓守どうすんの」と聞かれました。どうするって。いま、実際、お墓のことはしています。花を持参して掃除をしてお線香たっぷり。管理料も払っているし、供華の後始末などして下さっている方に、わずかながら心づけもする。夫が死んだらここへはタクシーで来ることになるでしょう、私がへばったら、後は・・・後は、知らん、というのが本音です。

二年。三年前でしたか、それまでは姑の住む家へ、何十年のお付き合いであるお寺のお坊さんが、毎月、来ておられました。

私がヨメになった頃は、最後に来ていた若い坊さんの、おばあさまにあたる方が来て下さっていて、姑は、座卓いっぱいに料理を並べて、勧めながら、自分の思う「神さんの話」を、とうとうと喋りまくっていました。亡くなられた後は、その旧いお寺の跡をとられた方が来ておられ、その僧侶は、姑の神さん話には眉も動かさずに、読経を終えると受け取るべきものを静かに収められ、では、とひとこと、去っておられました。

次男坊だか三男さんだか、息子さんが来るようになり、お寿司が大好物ということで、姑の手料理でなく、出前をとるようになりました。当日はもちろん、夫と私も仏前に侍るのが、姑の望みというか当たり前のこと、だったのですが、夫には仕事があります。坊さんの仕事に付き合って、休むわけにはいきません。で、私だけが行っていました。

生涯つとめ先というものを持たずだった同居の義弟は、したり顔でそこにいます、義弟のツマは楽器のセンセイで、仕事のある日は家にいません。私もずっと、仕事を持っていたのですが、長男のヨメですので、そのへんへのソンタクは無かったです。はじめの時期を超えて事情も家運も変わって、何年か前には私はただ、お布施の用意と寿司代の用意をすればいいようになっていました。

義弟のツマは私が、自分のいない時に家に出入りするのはイヤなようです。私は、今もほぼ、玄関先で帰る。私だってその方がいい(笑)。

姑は豪農の出で・・・ゴダイゴ天皇の時代からどうとか、というのが誇り、自慢、祖先はいざとなれば戦に出るべく、それ用の武具が、蔵の奥の方にしまってある、とのことでしたが、ヨメに出た娘の、息子の、ヨメ、である私は、蔵に近づくことも無く。どうなったのでしょう、それ。実家自慢のタイヘンさを、姑からしっかり学んだのは、確か。

・・・とにかく姑は食べ物が足りないとか少ないのがとても苦手で・・・戦中戦後、結婚相手の親きょうだい、すべて、自分の実家から運ばせた食べ物で命つながせた、というのも、自慢で誇りでした。舅は八人きょうだいの長男でした。戦争に行っていて、ミャンマーでマラリアに侵されたものの、命からがら帰ってきたら、名古屋の空襲で家は焼かれ、父親は焼夷弾の直撃で死んでおり、姉はその同じ焼夷弾で片足吹き飛ばされ、学齢期の妹や弟が、餓死寸前で、母親と力合わせて焼け残った親戚宅の納屋にいて舅を迎えた・・・別の親戚がよそに産ませた子供まで、舅の家では引き取って育てていた、その子をまぜると、九人きょうだいだった。

舅は、「食べさせてもらった」のは事実だけに、何十年言われ続けてイヤだったと思います。姑が小姑さんたちと不仲だったのは、「あんなにしてやったのに」の、姑の思いが、重かったのではないか、と、ひそかに考えています。理不尽なようですが、人の思いというものは、明快に説明しきれるものではない。舅は仕事のできる人で、時代の後押しもあり、けっこうな資産を築いたはずでしたが、弟妹達との絆が強く、どこかが壊れていて女癖ものすごく悪く、姑は夫の女癖に悩んで新興宗教にお金を運んでいたし・・・と、違う方向へ脱線していますね。

戦中戦後も飢えに遠かったが、おいしいものは食べられなかった(本人・談)姑は、お寿司の出前を頼むにも、六人いたら六人分、頼む人ではありませんでした。まあ、寿司の一人前って、満腹になるようなものでもありませんが。

で、お寿司の大好きな寺の若ボンさんが、来てくれるとて、馴染みの寿司屋に手配する。支払いは、長男である私のとこ、これはもう、気にするのもしんどいから、全く気にしなかった、でも、会社が潰れてエラいことになっていて、家の電気が止められていた、なんて時期には、忸怩たる思いがありました。でも、仕方ないのです。

お経が済むと、お茶を出し、お忙しいというのですぐに、お寿司を出す。ボンさんの前には、三人前を一盛の、大きい桶を出す。旧いお寺の次男か三男で、大学院を二つ出て、結婚したいが相手がいない、というYさんは、姑に言わせると「一生、兄さんの世話になりはんのやなあ}のお方。穏やかな、見かけもそこそこのお坊さんですが・・四十歳に近いかな・・昔ならともかく、昨今の女性は、結婚相手とは考えにくいかも・・・の、ひと。悪い人ではない、この言い方が当てはまるひと。もう少し言えば、自分しか見えていないひと。

三人盛の大桶に、ボンボン坊さんは、割った割りばしをかまえていきなり、マグロあたりに手を伸ばす。

これ以後を詳しく書くと、自分の目の意地悪、自分の品性下劣が明らかになりそうですので省略。

何百年だか続いている奈良のお寺の、三十近くまで学校行ったり研究室にいたりの、趣味は外国旅行という、そのYさん。

好きな物だけ選択制、食べ散らかしたといえどほとんど量は減っていない寿司桶を、気にすることも無く、お手拭きを所望されて、お手々きれいに拭われ、みじまいすすっと糺され、これは数年前の発言ではありますが、以前にも書きましたが、再び。

「今日は東京から姉が帰っています、僕がここ、済ませたら、早いこと帰って、みんなで焼肉行きますねん」

嬉しそうにお笑いになりました。たっと立ち上がり、ささっと草履おはきになり、最後の挨拶も無しに、単車ばぶーんとお出しになって、お帰りになられました。


姑も義弟も私も、言葉も無く、しーんとなりました。

残された三人の分は、別に、とってあります。義弟も寿司は好き。スーパーの寿司は食べないが、そこの寿司は、好き、の人。

しばしの後、いつものように姑と義弟が決定したのか(ワタシはお片付けしていたんだよ)、ボンが残した寿司は、ネエさんに持たせてあげよう、になったとのことで。

パックに入れて下さったそれを、私は、持ち帰りませんでした。ものすごく、いやだったんです。

渇して盗泉の水は飲まず。

武士は食わねど高楊枝。

そういう、ご大層なことでなく、ボンさんにも姑にも、いいから持って帰って食べさせてあげて、の「したり顔」の義弟にも腹が立っていました。私の大事な孫に、これは食べさせない、イヤである。

小さいこと言えば、義弟がひたすらいい顔してひたすら会社でつくった借金を(も)、ずっと払っているのは、夫。ひいては私。住む家さえ失いかけていた実情。少しだけそれを漏らした私に、「えらいこと言う、あの子(義弟さんです)は一人で背負い込んで苦労してるんやのに、えらいこと言うわ、あんた、そんなはずないやろ」と、わめいた姑。黙々と頑張ってる長男は、要領悪いからアカン、が姑の気持ち。後始末係。

娘のどちらかに後を、とも云うておられましたが、幸か不幸か(ワタシ的には、だんぜん、幸です)婚家の資産は、この十年間で、何もかも無くなってしまいました。家も土地もオカネみたいなあれこれも、すべて。な~んにも、無くなった。これあげるから家を継ぎなさい、なんて無くなりました、その代わりに、隠れてこそこそ生きなきゃならないことも、今は、一切、無い。そこは、うちら夫婦(主に夫)、頑張りました。子に、負の遺産は渡すものかぁ。

そんな気分で、ガルル、と暮らしていた頃の、話でした。夫は、会社がややこしくなりかけた頃から・・・舅のアイジンさんは「専務」になり、義弟は「常務」になり、どちらも損得の鬼のようになって、引っ張り合って欲しがって、そしてまともでなくなって・・・の頃から、

「親父が作った会社や、親父のしぃたいようにしたらええねん、おふくろも、〇〇(義弟)にしたいようにさせて、意地張り切ったら気ぃ済むんやったら、好きなようにしたらええねん」

と。ワタシとコドモらはどうなるの、みたいなことを言うようになりました、結果、むちゃくちゃになって、舅はアイジンさんのとこを放り出されて、姑も自分で設計図書いた家に住めなくなって・・・私たちの家が、いちばん小さくて古くなっていて、だから、競売にかかるようになっても、姑みたいな辛い思いをしないで済んだ。

持っていなければ、失うことはこわくないんだと。しみじみ思い知りました。・・・また脱線しています。

・・・大桶にハシ突っこんで小皿にも移さず寿司を食らう馬鹿タレ坊主にも、前々からムムム、の思いはあった。ありました。それはまあ、ナニとしても。

お盆、八月十五日に、「早いこと済ませに」来て、事実短かった読経を済ませて、出された寿司に、気、急きながらハシをつけてやって、袱紗さあっと開いて中身、サイドポーチに突っ込んで、席を立って玄関へ、帰省する姉家族と、焼き肉食べに行くために。

あほらしさに頭がほあーんとなり、以後、あのボンさんに出す寿司代は持ちませんと、夫に言ってもらったのでした。なぜ、自分で言わないかって?

私には、言えません。そういう風に、ヨメ、やって来たんです、おそらくそういうこと。

次女は先に結婚しました、長女は去年暮れに、結婚しました。娘たちは、気があれば実家の墓にも参り続けるでしょう、けれど。

わが家に「墓守」は、おりません。


・・・この話、続く、かも、です。



 *  分類 : 日常
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 みんなのうた。八月。
八月のうた、まとめさせていただきます。

さまざまの思いの胸浸す、八月という月。


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     KUONの詠める

・納采の儀了へたまふとや禍々しき報あらざるを何よりと祝(ほ)ぐ(絢子女王)

・父君のまた母上の欠けつるを互みに補しつつ幸(さき)くありませ

・睦まじく並ぶお二人微笑みに陰の見えざることのよろしさ

・お立場の自覚無き身のその見ばの品(しな)下れりと言に出ださむ(内親王)

・天皇のおうたを御製と申します平成皇后の「御製」もありて

・こざかしく言を操る歌人妃に汚されにける御製の幾つ


・新聞紙袋詰めする山崩れ豪雨不明者の文字大なるを

・何もかも崩れ流され人影の見えざる鄙に新盆迫る


・こころ無き御仁と見ゆるを「こころ寄す」と生ぬるきかな茶番のつづく

・出でて来て手を振りぺちゃぺちゃと何か言ふを公務とやはり思召すらし


・海青し入道雲のその下にひろげて赤きTシャツを干す

・ウチのジジ詐欺に遭ひたり隠したく触れられたく無きさま忖度す
 

     黒猫アビ の詠める

 ・眞子さんの 皇族としての 自覚問う
  愛の執着に 品格も消え

 ・眞子さんの 選びし相手 見ておもう
  女性宮家は 作ってならぬと
 
 ・激暑にて 外にでるのも ためらわれ
  日が暮れてから まとめ買いする

 ・暑すぎて エアコンつけて 部屋こもり
  冷気をさける ひざ掛けもして 
 

     Nちゃん の詠める

甲子園
勝った負けたと
嬉しそに
寝転びながら
抱き合いながら

大の字に
なりて昼寝の
君の脚
我も枕に
長閑(のどか)なお盆

寝てるから
仕方ないかと
堪(こら)えしが
続けて三度
真夏の殺意

天神の
大坂〆と
思うわい
祝おうて三度の
プップッ、ブー

紙一重の
愛と憎しみ
油の地獄
些細な事が
火種ともなる

一人より
喧嘩してでも
賑々と
寂しくはなし
妾宅の盆

二人して
喜怒哀楽も
生きてこそ
唯々そばに
いてくれやっしゃ


     こぶ の詠める

・母さんは45回の夏が来た あなたはたったの16回目

・静養を取りやめたとて 何になる 泥にまみれる被災地の盆


     ひらりんこ の詠める

避難所に 見つけた母は 丸くなり。ただにこにこと わたしを見てた

人混みで つないだ母の 儚い手
あんなにふっくら 強かったのに


     まめはな の詠める

・未熟なる手もて育てしミニトマトしずくのごとき実のふたつつく

・色づかぬしずくのごとき実をつけてミニトマト静かに葉を広げおり

・色づかぬ実を抱きしままミニトマト夏の盛りを超えてゆくなり

・始まりはいつもそうっと丁寧に大切に使うホイルとラップ

 
     パールの詠める

⭐世界一夢と呼ばれた架け橋は
 地球のまるさ肌で感じる

⭐モーニング夫は赤みのないサラダ
 私のサラダトマト四切れ

⭐目を閉じて潮の流れに浮かびつつ
 このまま私海に溶けたい

⭐酷暑なり名のみの立秋身に沁みて
 まだまだ遠き秋の足音

⭐風鈴の音も涼しと感じずも
 葉月の夜は意外と長い

⭐「飛行機に乗れば雲にも乗れるの」と
 問うた吾子(こ)懐かし入道雲見て

⭐青空と白い雲とがよく似合う
 力尽くせよ熱き若人        (甲子園〉

★怖きもの洋の東西多々あれど
 今の日本は千代田赤坂

★大丈夫変なヤツには掛からない
 眞子さんよりも見る目はあるし

 
     白萩 の詠める

早稲は はや稔りたるらし 夏風に重き穂ゆらり揺らぐ夕暮れ

学生の乗り込む駅でふと嗅げり 汗と脂の青春のにおい

横を歩く鶺鴒(せきれい)と我同じ服 黒カットソーに白のスカート

些細なる生活習慣違えれど余程でなければスルーするが吉

秋立ちて朝夕の風涼しけり 猛暑も一日(ひとひ)ごとに去りゆく


     アルジェリマン  の詠める

朝焼けのあとに雨降り虹かかる 雷鳴響く西の黒雲

金一封 それなんぼやねん百万か ゲスの勘ぐりさせるなオカミ

派手にヘリ飛ばして見舞い 暇人か そんなに見たくばドローン飛ばせよ

報告を信じることができないか ヘリ飛ばすらし見舞いするらし

国民にヨリソヒタマフ アリガタヤ 泥にまみれし戦後の皇室

敬意など持ってないよと 母が言う 遠いところの飾り雛だと

暑すぎて感性乾き怒り沸く 情けなきかな歌詠めぬ我

暑すぎて悲鳴上げるよ我が体 蕁麻疹出て夜空ながむる


     おてもやん の詠める

〇身の内にポリープあるの見つかって検査と治療秋まで続く


     KUON の詠める

・天変地異相次ぎし御代の三十年を平和に過ぎしと天皇の宣(の)る

・戦争は起こらず過ぎし平成の列島天変地異にまみれて

・内部荒廃ただごとならぬ皇室の長なるひとの呆呆の貌(かを)

・その妻に意志も思考も委ね来て否、操(く)られ来て天皇止むと

・さはいへど今上は真面目のひとなりき次代をあれを何と称さむ

・徳仁氏即位の成らばわたくしは皇室を持たぬ民とし生きむ


     温泉郷 の詠める

夜空には最接近の火星かなくっきり大きいオレンジ色の

風にのり音が届くよ山越しに打ち上げ花火の上だけ見える

暑すぎてゴーヤがひとつ採れただけグリーンカーテン茶色に変わる

雨上がり五山送り火よく見えた今宵は風が心地よかった


     たまき の詠める

何をしに
この世に生まれ
きたのかを
問う日々続く
問う日々続く



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