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返事の中までKUONです。
 「冷たい夜に一人」

何度も棲み処を変わりました。ひとりでの暮らしに慣れ、朝から夜までの過ごし方に自分流の好みが出てくると、もっと一人になってしまいたくて、住まいを変えたりしました。東京や名古屋や岐阜県の高山、長野、もっとあったような。

名古屋市内の母親の家には、基本、出入りを禁じられていました。時には夜、帰りました。泊っても朝には出て行くのだと思うと億劫で、外へ呼び出して昼ご飯を一緒に食べたりしました。母は小食で、必ず、せっかくのモノだけど全部はいただけない、と言うのでした。それを、黙って平らげることもあったし、知らんふりして残しておくこともありました。母はコーヒーが好きでした。

名古屋の、昭和区に、いっとき住みました。初めは昔ながらの下宿屋、好奇心で二階に住んでみましたが、すぐに、出た。玄関横に大家の一家の茶の間があり、出るも帰るも奥さんの視線の中、こりゃダメだ、と、出たのです。部屋の二面が格子窓で、周りの家々の屋並みの向こうに夕陽が見えて、夕焼けがきれいで、抒情的な住処ではありましたが、高校時代の数少ない友達が、訪ねて来て、二日ほど泊って行ったことがある、彼女が帰って行ったあと、甘いものを少し持って、挨拶してみたら、

「お泊りは遠慮して欲しいんです、畳が傷みますでしょう」

笑っているのか泣いているのか判じがたい笑顔の、指えくぼのある奥さんでした。はいすみませんと返事したものの、うひゃあ、畳が傷むか。びっくりして、それもあって、退出しました。

田の字型に、まんなかに廊下がある式の、倉庫を改造したアパートの、ひと部屋を借りました。隣が不動産屋の事務所で、夕方までしか人がいない。向かい側は、どうも夜の仕事のおんなの人のようで、夜がとても遅い。斜め向かいは、学生同士の同棲モノでした。学校行かずに、勤め人みたいにアルバイトにばかり行っている気配の男の方は、人が好さそうでモンダイ無かった、女の方は、わたし年上と、聞いてないのに私に告げ、夜のおねえさんが外に置いている洗濯機を勝手に使っていて、不動産屋の自転車にも、ときどき勝手に乗っているようでした。私はこの、なぜかこれも大学生だというおんなが嫌いで、顔が合えば顎だけ動かすみたいに挨拶もどきだけをして、口をきかないようにしていました。親しそうになってしまえば、パンでもレコードでも新しい布巾とかなんでも。借りに来そうな女でした。なにより、ぶさいくで。和風のうりざね顔、そこそこのはずが、私には、とてもブサイクに見えたのでした。私が何の仕事をしているかは、言いませんでした。

電話もファクスも無かったけれど不自由はなく。四百字詰め原稿用紙に、こちこちと、万年筆で文字を書きました。万年筆は、お気に入りのパーカー。インクもパーカーのブルーブラックを使っていました。原稿ができたら、紙の紐で閉じて、郵便局へ出しに行きました。親切な編集者さんがたと、離れて暮らしたくて、そうしていました。

その頃は、長谷川きよしの歌ばかり聴いていました。テレビを持っていたけれど、ほとんど見なかった。全く上等ではないプレィヤーを買ってそれに満足していて、そこに、静かに、そおおっとレコード盤を置いて、針をのせて。長谷川きよしばかり聴いていました。好みの曲を、あちこちから集めたテープを持っていて・・誰かが作ってくれた、やさしい人はどこにも沢山、いました。お礼はほぼ、スイスという店のスバゲッティか、凡愚という店のハムトーストか。コーヒー付きで。名古屋の喫茶店は、コーヒーに、必ず、豆がついて来ます。テープとかそういうものを作ってくれるのは、いろんな大学が周囲にあって、街には大学生がわんさと歩き回っていた、そういった人たちが、してくれたのでした。そういった親切な男の子たちを、部屋に入れることは、ありませんでした。

長谷川きよしは、どんなジャンルの歌も自分のものにして唄う人です。

「冷たい夜に一人」を、飽きもせず、聴いていました。

「別れのサンバ」も、まいにち、聴いていました。時にはヘッドフォンをつけて、ジャニス・ジョプリンを聴きました。「ジャニスの祈り」「クライ・ベイビー」。

長谷川きよしの歌は、ヘッドフォン無しで聴きました。時間の経つのは気にしないで、ずっと、聴きたいだけ。

この頃、また、夜、音を小さく、聴いています。好きな歌を心行くまで聴けるなんて、とても幸せではありますが、昔、若かった私のように、夜が深く更けるまでは、聴いていられない。体力が無くなりました。

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 *  分類 : 思い出話
自動通知機能 : -  *  伝言 : 10  *  記事編集  *  2019年02月28日(Thu) 21時48分
 別れのサンバ
どこへ行っても何をしても怖かったのです。それなのに世の中に飛んで出てしまい、とにかく怖かった。

今では伝説の、と称される、渋谷にあったジァンジァン。平気では入って行けませんでした。東京には知人も友人もいなくて、街の様子も電車の路線もまったく分からなくて。わからないんです、と言うことは恥ずかしくなかったので、言ってもいい相手にはそうと言って、教えてもらいました。編集者という職業の方に、何人も、甘やかしてもらってしまいました。殊に、途中でインドへ行ってしまわれたS社のYさんには、ホントにお世話になりました。

全身でビビッていた私を、初めてジァンジァンに連れて行ってくれたのは、Yさん。長谷川きよしを聴きました。今も長谷川きよし好き。「別れのサンバ」、「黒の舟歌」生で聴きました。震えました。長谷川きよし、素晴らしい歌が沢山あるのです。YOUTUBEでは限定的にしか聴けませんね・・。

長谷川きよし - 「別れのサンバ」2012

前述したように、後先考えず関西の静かな町の私学の女子寮から出て行って、ほぼ二十四歳まで。いろんな体験をしました、それが、時系列できちんとした記憶になっていません。あんなことがあった、こんなこともあった、と、アタマと気持ちの中に点々と残っている、学生だったのではなく、どこかの勤め人でもなかった、つまり、一年生の後に二年生になった、というラインが無いのです。どうしても覚えておきたい気持ちも無く、アタマのなか、薄まるままに流されての「冬眠」状態の年月もあって。

喫茶店で二週間働いたとか、精神病院に二か月つとめたとか。歳月が、一本のラインでなく、あっち行ったりそっちへ飛んだりしています、記憶そのものは、個々にはっきり、残っているのですが。

長谷川きよしが好きで浅川マキが好きで。決して明るい方、向いていない(笑)。岡林信康も来るらしいよと教えられて、71年の岐阜県、中津川市のフォーク。ジャンボリーに、出かけました。Hさんという編集者が、自分は取材があるから一緒に行こうと誘って下さった、はいお願いします、だったのです。それが、待ち合わせの駅で会えず。今みたいに携帯電話は無かった、編集部にかけたら、すでに出ているとのこと。止めようかと揺らいだものの、怖がりのくせに好奇心は強かった。カラダも元気だった、あちらで会えるかも~とか、いいかげんな見通しで、ぎゅうぎゅう詰めの電車に乗り込んだのでした。電話では、帰るから心配ご不要と伝えておきました。後でHさんは、帰るはずがないと思った、と。ここでも迷惑かけました。

電車降りたらバス。バスも満員。仲間とか友達同士で来ているっぽい人たちばかり。やたら明るいんでした、皆さん。とっても明るい人、怖かったのです、当時のワタシ。黙って前方を見つめていました。

着いたところは、ザワザワしていました。建物があるではない、森を切り拓いた、みたいな。広くて、人でいっぱいで、ああ、湖がありました(大きな池だと思った)それが「(文字が出て来ません)はなの湖(こ)だった訳。

これを書き始める前に、調べてみました。中津川フォークジャンボリー、71。

71年8月7~9日の3日間、岐阜県恵那郡坂下町(現在の中津川市) 椛の湖(はなのこ)の湖畔で開催された伝説ライブ。

出演は、あがた森魚とはちみつぱい(鈴木慶一、鈴木博文、本多信介、渡辺勝)、浅川マキ、五輪真弓、遠藤賢司、岡林信康、加川良、金延幸子、かまやつひろし、カルメン・マキ、ガロ、はしだのりひことクライマックス、斉藤哲夫、ザ・ディランII、シバ、シュリークス、高田渡と武蔵野タンポポ団、Dew、友川かずき、友部正人、中川イサト、中川五郎、なぎら健壱、長谷川きよし、はっぴいえんど、日野皓正クインテット、ブルース・クリエーション、本田路津子、三上寛、ミッキー・カーチス、安田南、山平和彦、山本コータロー、吉田拓郎、乱魔堂、六文銭。


いま眺めると、ものすっごいメンバーです。私はこの中の、三上寛、あがた森魚、吉田拓郎(よしだたくろう)くらいしか、聴けていません。あちこちで唄っている人々はいた、けど、それがどなた、と、解らなかったのでした。随分あとになって、吉祥寺の焼き鳥屋さんで、昼酒中の高田渡を見かけて。ずいぶん年を取られるのが早いなあ、などと、失礼な感想を持ちました。

「プカプカ」という歌が好き、↑ のメンバー表を見てザ・ディランIIを見たかったなあ、と、思いました。

三上寛、この時から多くの人に聴かれるようになった、のでしたか。「朝にカラスが鳴くときは~」とか。唄っていた記憶。違うかな? 迫力ありました。髪は長くなくて短髪でした。インパクト強かったけど、この後は聴いておりません。あがた森魚の歌は独特、真似してうたっていました。「赤色エレジー」とか「乙女の浪漫」とか、ポッケに石鹸、いっこ入れ~とか。たくろうはあの時「人間なんて」を、二時間くらい歌い続けていたのだと・・後から知りました。一部分は聴いた、パーっと明るい何かに包まれている人でした。たくろう好き、とは、私、口に出したこと無いな・・「祭りの後」とか、いい歌です。人がいっぱい集まっていて、熱気がすごくて、周囲は暗いし足元はデコボコで歩きにくいし、なんだか、湖でだれか行方不明らしいとか、小声で囁いているのがジワジワ聞こえてくるし。全くアウトドアの人間でなくて、土の上に座る勇気が無く、かといって座れそうな場所など無さそうで、フラフラ出て来た身、ゼイタク言う気は無かったが、ココロ細くなりました。

で、結果的には、そんなに長い間いられないで、誰かにみつけてもらって・・とても広い場所でしたのに・・大きな車に押し込まれて、食べ物飲み物いただいて、帰途に就いた。ヘタレはこの頃からです。以後は、自己完結できないワタシは、キャンプにも行かなかったです。基本、部屋にいる人で、時々、映画やコンサートに出かけました。

野外フェスとか。自分自身を開放しきれないので、無理だとわかりました。

聞けたらいいな、と願っていた岡林信康は、私の前か後かは知りませんが、身に危険を感じて(?)、自分にそぐわないものを感じて(?)早いうちに、その地を後にしたのだったとか。

とりとめない話になりました。Yさんはどこ行った? みたいな今日の記事です、また出て来られると思います、Yさん。

・・・・私に対して「威張っている」「自慢している」と書いて来られる方、おられます。どう思われようが自由とは思いますが、鬱陶しいから、そういう感想は要らない、と申し上げておきます。




 *  分類 : 思い出話
自動通知機能 : -  *  伝言 : 2  *  記事編集  *  2019年02月27日(Wed) 20時02分
 さういへば2・26
   「濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ」

   「暴力のかく美しき世に住みてひねもすうたふわが子守うた」


うたの師がお好きだった「斎藤史」という歌人のうたである。斎藤史も私の師も、すでにこの世におられない。

 「二月廿六日、事あり、友等、父、その事にかかわる」。

2・26事件の起きたその時、若い母親だった史が記した一文。陸軍将校だった父・斎藤瀏(りゅう)は叛乱ほう助罪に問われ禁固刑に。幼なじみの一人もクーデターに加わっていた・・親しい将校の刑死、という「事件」だった。

今日も2・26だ。2月26日。カレンダーを見て、なんとはなしにそんな思いが胸をよぎっただけ。

2・26「事件」を起こした人々の気持ちを、あまり判らないながら考えてみると、当然、三島由紀夫に行き着く。三島由紀夫は現在の皇室を見ないままだったこと、よかった。言うまでもないか。。

歌人・斎藤史は、皇居に招かれたことがおありだった。昭和天皇の在世中。将校たちのクーデターにいたくお心を乱され、自ら火消しに当たられた天皇は、斎藤瀏の娘、史を間近にされて、ハッとされたように「元気でおったか」のごとき言葉を発されたという。史は、しとやかに目礼を返したという。人生、無茶苦茶になられたのですけどね。


今上天皇の即位30年を祝う会とやらが催され、そこで皇后のうたが披露され、かつ、過去に天皇が詠まれたという御製に、皇后が曲をつけたという「琉歌」を、若い歌手が歌ったという。歌手は「全身全霊で」うたったそうで。やたら何でも大仰になる。大知クンをくさすつもりは全く無い。

陛下の御製は、うまい、うまくない、の範疇にはまらないものと思っている。天皇の詠みたまいしうた。そういうものと思っている。それを、どうも皇后がナニヤラしている、とは、ずっと考えていたこと。うたに限らないが。

その地へ行ったからとて、その地のことばで器用に、今上が幾首もうたわれたとは考え難い。私がこんなこと言っても、いつものミジンコのため息、ってなもんであろうが。

たかが天皇の連れ合いが。なんでそんなことをする。なんでそんなことをさせておく。とか。無視、無視、とオノレをなだめつつ。あっちの方でしてはること、カンケイーない、と思いつつ。

なんですか、皇居で茶会してると。三回も、茶会、しておらるると。すごい体力でおわすことよ。感嘆。。ミテコさまにおかれましては、上機嫌の上ゆく笑顔にておわしますご様子。無理くり即位まで持ってゆかるる皇太子も、ちょーご機嫌の笑顔。次代皇嗣殿下も、美酒を片手にご機嫌うるわしゅうあらしゃる。二人のお嬢もいてはりますなぁ、いてあげてはるのか、やっぱり楽しい感じなのかな、華やかな場所で。

まさこは欠席。ずっと欠席。そんなの気にしないで、ということか。これからも彼女の体調次第、ケジメって何のこと。

民は黙して働きおれ、ありがとうして慎みて税を納めおれ。そーゆーこと。今更何をヒガンバナ。

斎藤史の、もっとも知られているかもしれない一首を、最後に、あげさせていただきます。

   死の側より照明(てら)せばことにかがやきてひたくれなゐの生(せい)ならずやも
                            ―斎藤史  


 *  分類 : 日常
自動通知機能 : -  *  伝言 : 3  *  記事編集  *  2019年02月26日(Tue) 19時14分
 「おう、帰ったか」
養父は厳しい人だった。私にもケジメを要求した。

高校を卒業するにあたり、学寮で一緒だったほとんどは、進学を決めていた。私は進学しなかった。したい気持ちはあったが、私には学問をつけさせたくないと養父は言った。

「女の子というものは、家に大根と人参のしっぽがあったら、これで皆に美味しいものを作って食べてもらおうと考えるものだ、それで幸せになれるのだ、お前はヨソむいた思考を持っているから先行きが不安だ、きちんとしつけてくれるところへ行って学ぶのだ、結婚する先は決めてあげるから」

当時の私は、そんな幸せなんか要らん。その思いしか無かった。そんな人生まっぴら、真っ暗、結婚なんかどっちみち、したくない、私は自分が稼いだお金で、自分の吸う空気を買いたい、買うんだ。

卒業式も済んで、寮を出る前、養家の広い寒い暗い部屋で、私は、三日後にはそこへ行け、と言い渡されていたA家へ行きたくなくて、どうしようもない思いに鬱屈していた。

で。養父の言うことが聞けず、突っ走ったわけだった。ドラマにあるように、ボストンバッグ一つとショルダーバッグだけで、黙ってその町を出た。お金は持っていた。すでにお金を稼ぎ始めていたのだった。

それから、完全に白旗かかげて戻るまで。二十四歳になる数か月前まで。一人で生きた。

家出を決行した私に、養父は徹底的だった。勝手に出たのだから家の敷居はまたぐな。それはわかっていた。母の暮らす家にも、人目のある明るいうちには出入りできなかった。昼間、母と会いたい時、というより、会う必要のある時には、外で会った。

学寮に残した荷物は、亡父の妹である叔母が引き取ってくれた。叔母は私の味方をして、怒っていた、母や養父に。叔母の気持ちは嬉しかったけれど、母も養父も悪くない、悪いのは、私なのだった。何度もそう繰り返した、叔母は、それでも、と、泣いて怒っていた。

「兄さまがいりゃあしたら、高校出たばっかの子を、こんな目に遭わせることもなかったのに」

それは確かにそうだったかも知れない、が、事実父は、私が五歳の時に、死んでしまっていたのだから。この叔母と叔母のだんなさんは、このことの前から後も、ずうっと、私の味方をしてくれていた。大恩人と思っている。

私は一人で暮らした。一人暮らしの中にいろんなことがあった。たくさん出会った編集者の中に、「こうしていられる間に、どこか大学へ潜り込んで出ちゃったら」と勧める人もいた。時代がそういう時代だった、新しい雑誌がどんどん生まれていた時代、書き手はどれだけでも要求される、食べるには困らないだろう、でも

「しっかりした作品が書けると思うんだよ、僕は。統計だった勉強もいいものだと思うよ」

そう、言ってくれた。なんとか原稿料で暮らしたり遊んだりしつつ私には、純文学とかエンターテインメントとか本物だとか筆が荒れたら終わりだとか、周囲で飛び交うさまざまな言葉が、さっぱり理解できていなかったのだと思う。わけもわからず、もらった注文を、いっしょけんめいにこなしていた感じ。

大学か。いいな、大学。明るい、華やいだイメージが、脳裏をいっぱいに占めた。自分でお金を払って大学生になれるなら。ほんわかと考えた。

どうやったら大学へ行けるのか。教えてもらって、高校を卒業しました、の証明をもらって、と。まるで得意でないそういうことを考え始めて、あっさり挫折した。正式には何と呼ぶものか、今も分からないままなのだが、それを、私は、手に入れられなかったのだった。確かに卒業はした。けっこういい成績だった。でも、それを、入手できなかった。養父には、そういったことをできる力があったということだ。

勝手に出て行った者である私に、そんなことはさせない。そういった意思表示が、そこにもあった。

・・そうなのか。私はすぐに諦めた。

大人になって独立するために大学を出るんでしょ、もうすでに今、人に憧れられるような仕事しているんだから、学校行くこともないんじゃん。

私に都合のいいそういうことを言ってくれる人もいて、それもそうかと思い・・胸は痛まなかったわけではない・・、忘れることにした。本はとんでもなく読んでいたし。音楽も聞きたいだけ聞いていた。思い立って夜行列車に乗って雪国へ行けたし、ほか、あれこれ・・。

同窓会やクラス会の知らせも来なかった。私宛にはそれは、来なかった。養父に逆らい、自分の意志を通すということは、私には、そういうことだった。友人が教えてくれたりすることは、それは、それなりにはあった。

そんな歳月のうちに。

誰のせいでもなく、自分自身の心が、ぐっさりと倒れてしまって、もうどうしたらいいのかわからない。そんな自分に、なった。

・・・唐突ではあるが。マルグリット・デュラスの原作を映画化した「ラマン」という映画があった。・・・「十五で私は年老いた」とかいう惹句で、かなりヒットした映画だった記憶がある。私も観たかな・・映画の内容は、私とは全く関係の無いようなものだった、が、

「十五で私は年老いた」

その惹句は、奇妙に、すでに二人の子の母親になっていた私の、気を引いた気がする。
二十四歳って、そんなに「終わっている」年齢ではなかったと今も思う。しかし私は、疲れて、とても疲れて、もう生きてなんかいられない、といった気分のなかに、アタマのてっぺんまで漬かりこんでしまって。

養父に連絡を取り、その年の三月の初め、およそ六年ぶりに、その家の格子戸を開けたのだ。

茶の間にいた養父の前に進み出て、頭を下げて、お辞儀をして。どう言えば、と数秒迷ったアタマの上に、

「おう、帰ったか」
そんな声が降った。私は、ぐっとこらえて、帰りました、と言った。

申し訳ございませんでした、と。

顔を上げると、養父は笑っていた。顔を伏せて私は、ごめんなさい、と言った。

ものすごくたくさんの迷惑をかけたと思う、私は、養父に。周囲の人々に。でも本当は、周囲の人々・・懐かしくて尋ねたら、あなたを受け入れてあげられないのよ、と玄関先に仁王立ちだった学寮のセンセイや。いやいや、もういい、そのあたりのことは、悪いけどいい、

私は、養父が何も言わなかったことが、その時、そのことが、ただ、本当にうれしくて、安心だったのだった。

追記。書き終えて調べてみたら、デュラスの「ラマン」、「十五で私は」でなく「十八歳で・・」でした。なんで間違ったのか。どうもすみませんでした。」


 *  分類 : 思い出話
自動通知機能 : -  *  伝言 : 2  *  記事編集  *  2019年02月24日(Sun) 23時06分
 天皇のお言葉
今日は他のことを書きたかったのですけど、一応。

在位30周年の式典なる行事をしてもらわれた天皇さんが過去にあったかどうか、存じませんが。

今上天皇が読み上げられた原稿の最後の、

「ここに改めて わが国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります」

この部分を、唯一肯定的に。天皇らしいお言葉として聞かせていただきました。ここだけでいいのではないですか。


 *  分類 : まじめなお話。
自動通知機能 : -  *  伝言 : 5  *  記事編集  *  2019年02月24日(Sun) 21時15分
 寄り添わないでねナルちゃん私に。
今日は墓参り、姑詣で、その他あれこれ疲れた~ですけど、テレビを観る時間が無かったのでよかったです。

59歳におなりになったという皇太子さん。私はそれを欲しておりません、勝手に(国民に、だとか言って)寄り添ってしんぜよう、なんて、おほざきにならないで下さい。ぜんぜん望みませんので、こっち向いてあげたりなさらないで下さい。帰宅してひらいたパソコンの画面で、パジャマで寝起き然とした子どもおっちゃんの顔見て声聞いてしまって、血圧が48くらい一気に上昇しました、こいつに「わが国民」扱いされてしまう情けなさ。

寄り添わないでね、あなたたちの為に生きている国民なんかではないです、あなた私にカンケー無いお人。



 *  分類 : まじめなお話。
自動通知機能 : -  *  伝言 : 6  *  記事編集  *  2019年02月23日(Sat) 21時05分
 如月のうた。


     白萩 の詠める

・冬空に欠けなき月ののぼり来て星見えぬなかきりり耀う

・新品の赤ハイヒールをおろす日はなんとはなしに心浮き立つ

・幼な子の面差し母堂へ生き写しにて健やかにとぞ祈りたりけり
               [成田屋襲名披露]

・みずからの時の苦労は忘れしや 咳しただけで「悪阻!?」はやめて
               [母への苦情]

・「結婚は?」終われば「赤ちゃんは?」の質問 いなすも辛き日も時にあり

・「ここにゆりかごあります」こうのとりへと立札出したくなる時もあり

     KUON の詠める

      赤い橋   回想
・濃き霧に閉ざされてなほ赤い橋 揺れつつ歩むひとりにて歩む

・朝醒めぬいつものごとく潮騒も君のにほひも届かぬ部屋に

・幻聴のごとく響かふ佐渡おけさ瞼ひらけばわれの部屋なり

・ねっとりと熱退かぬ身を撫づるがにじょんがら節や北の津軽の

・耳底にうねり止まざり盲ひたる津軽三味線の太棹の音

・佐渡情話うたふひばりの背後より日本海の潮の香の来し

     紅椿
・丘の上の白亜の家は南向きあっけらかんと春の陽のなか

・地図にては距離数センチの海の辺に君がいっぽんの墓標は立てる

・附箋二枚まとひてわれに届きたる小学校のクラス会通知

・旧き友らは懐かしかれど語らひて昔のわれに還るは疎まし

・思ひ出を手繰りよせずに暮らし来て遠くなりたり母校、故郷も

・淡々と今日も過ぎたり紅椿ゆめの底ひの闇に落ちつぐ

・腹減りて鳴くらむ猫を充たすべき何を持てるや冬野に出逢ひて

・冬枯れの野をいっぴきの猫ゆけり見送るわれは吹く風のなか

・いたづらに構ひてわれは野良猫を寂しがらせしのみやもしれず

・透明のグラスのなかの一つ泡 閉ぢこめられし永遠と見る

・自(し)がための小さきガラスの雛飾る赤き座布団(おざぶ)もちくちく縫ひて

・花を活け雛(ひひな)をまつり夜の部屋に選びてバッハのフーガ響かす


     かりそめ の詠める

*野鳥園ノトリとなぜに読まぬかと子は難問を母に投げかく

*虫たちは温(ぬく)き地中に夢を見る春雪ふはと若草の上

*共有の植樹禁止のはずの苑紅白の梅ことに麗し

*満開の梅のすきまに赤きものはや開きたる二輪の椿

*病院へ行きと帰りと違ふ道四温の光たつぷり浴びて

*あの頃の君は眉間にいつも皺好好爺たる訃報の写真

*我棄てて佳き人生を終へしらし今あるものは懐かしさのみ


*我死して二十年後に蘇生せば祖国あるやも覚束なくて

*鉄橋にかかり列車の音変はる大河渡れば住みふりし街

*二筋の大河と海に囲まれて岬めきたり我が住む街は

*なんとまあ四十年超す二人住み良しも悪しきも曖昧模糊と

*野良猫の手に載るほどの小さきが命をかけてヒトを威嚇す

     鎌倉へ
*小康の身を如月の海光に二年の月日なかりしがごと

*鎌倉を歩きたいゆゑ耐へるぞと友に書きたることもありしを

     黒猫アビ の詠める

 ・ふわふわと風に吹かれて雪が舞う
  雪の行方を眺め楽しむ
 
 ・我みつめ心配性の性格は
  子供時代の悲しきなごり

  ・これ抜けば血を噴くだろう
  心中の鬼が育てたわが暗きとげ
               (母に)

     まめはな の詠める

・食べかけのりんごを高く投げ上げる地球を宙(そら)に放るごとくに

・苛立ちて度々怒鳴る弟をさらりとかわす我が知恵哀し

・弟の怒鳴らぬように先へ先へ家事整えに走り回りぬ

・わかりあうことなき母と娘でありき ひたすらに機嫌を取りし日遠し

・四十九日過ぎたる我に「母の死に目に会えぬ助けて」と叫びし人あり

     かげろう の詠める

肩組みて声高らかに歌いゆく仲間うれしき安芸の山並み

時超えて仲間と理想を語りたし還暦超えてもなお語りたし
               (OBOG会に参加して)

     天上の青 の詠める

ばらずしを
薔薇のお寿司と
思いおり
凍てつく今宵
蒸し寿司にせん

     ひらりんこ の詠める

一月に ここだけ春の甘い香(か)は
あなたが切ってくれた水仙

     おてもやん の詠める

〇焼き牡蠣の殻を広げて身をはずす慣れた息子と尾道ランチ

〇咳と痰止まらぬ母を病院へレントゲン撮り肺炎判る

     皇室ブログと競馬のファン の詠める

デパートでいろんなチョコを試食するみなおいしくて決めれらずいる

     アルジェリマン の詠める

冬晴れの土曜日の午後 音立てて重機一台枯れ田埋めおり

わが膝に鼻先のせる黒犬をぐいと引き寄す 夜は寒くて

身震いしイヤとコワイを振り飛ばし新しい風まとう黒犬

泣く人に神は微笑む 人泣かすヒトにも神は微笑んでいる

その石も砂も何かの墓碑なればそと寝かせおけ光の中に

手のひらの保湿クリームの香でしのぐ 異国の異臭満ちた電車で

     パール の詠める

⭐金も手も時間も何も出さぬなら
 口を出すなよ煩い外野

⭐歳とりて身体は丸くなりてなほ
 心は円くなれないワタシ

⭐悲しみも悩み不安も憎しみも
 私が私で在る一部なり

⭐降りそめし雪てのひらに受けて食む
 朝には薄い雪化粧かも

⭐息白く見上げし空にはVenus
 凍る車体に猫バンバンを

⭐故郷より逆縁の便りまた一人
 老ゆる母堂にかける言葉なし

     たまき の詠める

さみしさを 背中におんぶ ねんころり
日々は過ぎゆく 雑事にまぎれ

執着を 手放したなら 楽になる
空に逃がそう あの雲あたりへ

     温泉郷 の詠める

「いただかせていただきます」と言うテレビ国語を壊し日本を壊す

               (京都マラソン)
一万と六千人の走る日は沿道の声選手らを押す

皇室のトリプルM子平成の歴史に残る破壊力かな


今月もしっかりしっとり、うたの在る世界にいられる幸せを感じさせてもらいました。

皆さま、どうもありがとうございました。来月も、レッツ、うた詠み。一首ずつでも続けてまいりましょうと申し上げます。


 *  分類 : みんなのうた
自動通知機能 : -  *  伝言 : 1  *  記事編集  *  2019年02月22日(Fri) 21時22分
 脱線・竹山
太鼓の音が聞きたい。和太鼓ならなお嬉しい。

中学、高校と、吹奏楽の盛んな学校だった。何かあると吹奏楽、だった。きらめく管楽器もよかったが、大きいの小さいの、太鼓の音が好きだった。クラスではおちゃらけているフツーの男の子たちが、ぴしっと制服に身を包んで、姿勢ぱりっと視線はまっすぐに歩きながら楽器を演奏して行く姿は、まぶしいと同時に、女の子には許されない世界を見せつけられているようで、悔しい気持ちもあったのだった。・・・素直に憧れるだけで済まず、のややこしい性格だった・・・。

中学時代にビートルズに出逢い、高校の寮ではGSにどっぷりだったことは、今までにすこし書いたけど。それからロック、ヘッドフォンでグァングァン聴いてたとも書きましたけど。

長じて後は、また違う方向を向いていた。まずは高橋竹山。津軽三味線の竹山。盲目の、とアタマについて紹介されること多かった、そんなことは(私には)どうでもよかった、音に掴まれてしまった、演奏会場へ、行ける限りは足を運んだ。いろいろな音や歌を聴きに、いろんなところへ行っていた時代だった、周囲にはさまざまユニークなヒトビトがいた。

初めに、方向音痴の私を竹山の演奏する場所へ連れて行ってくれたのは、同い年くらいだった一つ三つ編みのAだった。男性だった。チケットを手渡された時に、あ、ありがと、とお金を払ったらイヤな顔をした、なんじゃい、と思い、気にしないことにした。チケット代だけではいけなかったのだろうか、とは、ふと、感じつつ。

息が止まるような演奏を、両手、こぶしを握り締めながら聴き終えて私は、全身、ぐったぐたになった。シートからすぐに体を起こしかねた。アタマのなかに、べんべんべんべんべべんべんべんべべんべんべんべんべん。もう終わってしまった太棹の音が、鳴り響いていて、すぐにはものを言うのも無理、な感じなのだった。

三つ編みのAは・・フォークソングをやっていたなあ・・もう、とか言いながら通路まで誘導してくれ、背中を押して出口へ向けようとしてくれたのだったが、打ち明けます、わたし、人さまにカラダに触れられるのが、とてもとても得意でないのです。で、親切なAの手を、振り払ってしまった。なんだよお、とAは、たったと先に出て行ってしまった。

置いて行かれたら困る。方向音痴の私は焦って、追いかけた。一つ三つ編みの背中が見えた、ごめんねぇと追いついたら、何にごめんなんだ、と、Aは、怖い顔だった。

何に?・・うう、いろいろ、かな。演奏中に話しかけられて無視したこと、小さいチョコくれようとしたのに気づかなかったこと、さっき、手を、振り払ったこと???。よくわからなかった。

これからどうすんの、とAは、いつもの、草食動物系のマナザシになって、尋ねた。これからどうする・・わかりません。

〇〇へ行ってゴハンって言ってたんじゃないの。Aの口調のトーンが上がったの、気づいても対処ができなかった。きっと私は無神経だったのだろう、と、後で、翌日の次の日のくらいに気が付いた・・・。確かそんな話だった、遅かったようで・・・。ただ私は事実、お腹はとても空いていたのに、ゴハン食べに行く気分には、まったく、なれていなかったのだ。

もういいよ。Aはやさし~い声で言った。やさし~く笑いもした。私は、ものすごくすまない気になって、だから、うまくものを言うことができなかった。

「Aさあ、気を悪くしちゃった?」

私が口に出来たことはそんなことで、Aは、うううん、と、大きく頭を振って、そんなことないよ、と言った。俺が、ちっともわかっていなかったんだと思う、と言った。何を?と私は問うた、Aは、もういいんだよ、と、やっぱり草食動物の目をした、そして、私にわかる大通りまで無言で案内してくれて、あっちへああ行ったら帰れるからね、じゃあね、と、口元を「ん」の形にして、笑ってバイバイ、と言った。

走って行ってしまった。

・・・あああ、ごじんじょだいこ、について書きたくて始めたのに、ぜんぜん違う方向へ向かっているような。

また書きます。え。読みたくない? 私は書きたいもん。



 *  分類 : どうってことのない話
自動通知機能 : -  *  伝言 : 3  *  記事編集  *  2019年02月22日(Fri) 10時51分
 如月のおべんきょう、ここまでです。
続けてまいります。

この色は詠草。詠み人さんのお名前はこの色。前書きや詞書やメッセージの色です。KUONが書いている部分です。

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     アルジェリマン

冬晴れの土曜日の午後 音立てて重機ひとりで枯れ田埋めおり

この作者らしい、硬質な風景画ともいうべき世界がよく見えま・・・す、と言いたいけど。「重機ひとりで」は、重機が一人で・・擬人化で、重機さんが一人で作業しているのか(まさか、ね)あるいは、誰かが重機を操って、ということなのか、と疑問を感じました。

わが膝に鼻先のせる黒犬をぐいと引き寄す 夜は寒くて

愛してやまない黒犬さんを、べたべたと詠むをよしとしない作者。でも、この一首では、ぐい、と引き寄せている。夜は寒いから、と。あったかかったでしょうね、この時。

身震いしイヤとコワイを振り飛ばし新しい風まとう黒犬

凛々しい若い黒犬です。

泣く人に神は微笑む 人泣かすヒトにも神は微笑んでいる

軽々に評せない重さ。ぶっちぎったような詠みぶりが生きています。

その石も砂も何かの墓碑なればそこに寝かせよ光の中に

↓ の二度目の投稿の折に、返事をさせていただきます。

手のひらの保湿クリームの香でしのぐ 異国の異臭満ちた電車で
        (・・・空港行きの電車が満員で臭くて、びっくりしました。)

難しい題材のうたですが・・現実に体感すると、てのひらに馴染んだ香りがあってくれてよかったですね、と、素直にいいたくなります。まさか「ヘイト」とか、言わないでいただきたいですね。

     パール

   ~愚痴二首続きます~

⭐金も手も時間も何も出さぬなら
 口も出すなよ煩い外野

よくよくわかります。そのままです。

⭐歳とりて身体は丸くなりてなほ
 心は円くなれないワタシ

円くなどならなくていいです、なれない時になろうとするのは、ご自分がかわいそ過ぎます。ギザギザのままでいい、勝手に丸くなる日が来ます、「さなか」を超えれば。そう思いますよ。

⭐悲しみも悩み不安も憎しみも
 私が私で在る一部なり

そう、思っておられることはいっそ「尊い」と思います。

⭐真夜中に目を閉じそっと雪を食む
 朝には薄い雪化粧かや

わからないではないですが、真夜中に、外へ出て、あるいは窓の外の雪を、そっと、食まれたのかな? そこがいささかちょっと、と思うなり。五句目の終わりの「かや」、これも、わかりますけど「かも」くらいがいいのではないかと。

「降りそめし雪てのひらに受けて食む朝には薄き雪化粧かも」

お気に召さなければ言うて下さいね。


⭐白き息見上げし空にはVenus
 凍る車体に猫バンバンを

すみません「猫バンバン」、勉強不足(?)でわかりません。教えて下さいね。「白き息」は「息白く」ですかしら。なんやろ、猫バンバン。

⭐故郷より逆縁の便りまた一人
 老いし母堂にかける言葉なし

「老いし母堂」とは、どなたのことか・・母堂と丁寧語で仰っているけれど。それと「老いし」=ついやってしまう言い方=は、このうたでは「老ゆる」と、現在形で書いた方がいいと思います。故郷から逆縁の便りが「また」来た。老いておられる「母堂」の淋しさ、嘆きがわかって、かける言葉の無い私、の意味と思います、お優しいお気持ちです、なので、しっかりと歌として仕上げられたらいいな、と、思うのです。

     アルジェリマン

その石も砂も何かの墓碑なればそこに寝かせよ光の中に

   この歌を読み返すと、そこに寝かせるものは、
   命が消えたなにか、のようにも読めると思いました。
   石や砂は何かの血を浴びた墓碑そのものだと思うから、
   海や川の自然における石等を持ち帰るな、という意味で詠みたかったです。


その石も砂も何かの墓碑なれば 触れずそのまま思いいたせよ

   ・・・と、これでは単なる説明になってしまいますよね・・・

「そっと」という言葉を「そと」と書きます。はじめに寄せられた一首の「光の中に」は残したいので、

「その石も砂も何かの墓碑なればそと寝かせおけ光の中に」

とされたらどうかなあ、と、思いました。


     かりそめ

   久しぶりに鎌倉に行けて嬉しかったので、つい。

*小康の身を如月の海光に二年の月日なきがごとくに

完成された一首と思いつつ、欲張るワタシ。

「二年の月日なかりしがごと」「二年の月日なかりしごとく」など、考えてみました。


*鎌倉を歩きたいゆゑ耐えるぞと友に書きたることもありしを

その思いでの「二年」でいらしたのですね。よかったでしょうね、鎌倉。

     たまき

さみしさを 背中におんぶ ねんころり
日々は過ぎてく 雑事にまぎれ

この作者も独特の世界を。しつこいKUONも漏れなくついております。

「日々は過ぎてく」、わざとのこの言い方かとも思いましたが、やはり散文的に過ぎると思います。「日々は過ぎゆく」ではないかと。最後は作者の選択ですが。


執着を 手放したなら 楽になる
空に逃がそう あの雲のあたり

いやホント、執着を手放したなら楽になる。その通り。で。「あの雲のあたり」でとめたい気持ちもよくわかる。正確に言えば、と前ブリつけて申します「あの雲のあたりへ」と一文字余らせるか「あの雲あたりへ」とされるか。作者の選択あるいは好み。


     温泉郷

「いただかせていただきます」と言うテレビ国語を壊し日本を壊す

(笑)。笑い、じゃないですね、ホンマです。最近気になって仕方ないのが「怒り心頭」ということば。本来この後には「に発す」がついているべきでないかい。この頃は単に「怒り心頭」で通っていますよね。あれこれ気になって時代劇も観ていられないし、不便なもんです、とか、いい気になって言ってるワタシ。とほほのほ。

   (京都マラソン)

一万と六千人の走る日は沿道の声選手らを押す

マラソン見るの好きです。マラソンは冬のものです。来年は・・あ、思わずにいましょうか。

皇室のトリプルM子平成の歴史に残る破壊力かな

むむ。トリプル、になってしまいましたか。残念なこと。もう、語る気持ちにもなれません、何やってんだ、いいかげんにしろよ。内心の言葉を、極めて上品風に言えば、そういうことです。もっと言うなら・・やめておきます。

何もかも下卑てしまって。・トリプル。M子ですか。なんともかとも、いやはや、ううん・・・・・。






 *  分類 : みんなのうた
自動通知機能 : -  *  伝言 : 5  *  記事編集  *  2019年02月21日(Thu) 20時49分
 如月のおべんきょⅡ
続けます。

この色は詠草。詠み人さんのお名前です。詞書とか詠み人さんのメッセージとか。この色はKUONが書いている部分です。

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     まめはな

・食べかけのりんごを高く投げ上げる地球を宙(そら)に放るごとくに

青い空にりんごの赤い色、きれいでしたか。

・苛立ちて度々怒鳴る弟をさらりとかわす我が知恵哀し

その「知恵」は、生きているためにどうしても必要な知恵なのだろうけど・・なんだか愛おしくて寂しい。「弟」を叩いてやりたい・・ごめんなさい。

・弟の怒鳴らぬように先へ先へ家事整えに走り回りぬ

やっぱり弟を叩きに行きたい。ごめんなさい。

・わかりあうことなき母と娘でありき ひたすらに機嫌を取りし日遠し

今は、そういう関係で無くなっておられるように読んで・・過去形なので・・安心なような余計にせつないような。

・四十九日過ぎぬ我に「母の死に目会えず助けて」叫びし人ありぬ

ええと。うたの内容がわかりにくい、と申し上げていいですか? 四十九日が過ぎた、というのは作者の現実のようで・・対象がどなたかは問わずとして・・「母の死に目会えず助けて」と叫びし人、ありぬ、と過去形なので、つながりが私にはわかりにくく。

好奇心ではなく、うたを分かりたい私として、ここ、気になります。もしかして、自分はホッとしてさえいるいま、助けてと叫びし、と、切羽詰まった人がいて、そこの齟齬を、書きたかった、とか? せっかくの一首ですので生かしたいと思い、書かせてもらいました。聞き苦しいとか、そういうのは気になさらんがよろし、よ(笑)。


     かげろう

肩組みて声高らかに歌いゆく仲間うれしく安芸の山並み

一読、「青い山脈や~ん」と。弾む気持ちの高ぶりが伝わって来ます。元のうたをできるだけ触らずに、しかし、一点だけ書かせてもらいます。「仲間うれしく」の「く」を「き」になさいませ。

「肩組みて声たからかに唱いゆく仲間うれしき安芸の山並み」

「安芸」の地名は事実なのでしょうが、よくはまっていますね。


時超えて仲間と理想を語りたし還暦超えてもなお語りたし
                      (OBOG会に参加して)

いいですね~。語って下さい、還暦なんのその、還暦まだ若し。「語りたし」の繰り返し、ここでは生きています。楽しかったのですね。よろしかったですね。

   学生時代は私の大切な思い出、青春です。

     天上の青

ばらずしを
薔薇のお寿司と
思いおり
凍てつく今宵
蒸し寿司にせむ

天上の青。その名の、美しい色の朝顔がありますね。

薔薇のお寿司って、いいなあと感じました。女性らしくて。向田邦子の「夜中の薔薇」を連想しました。この「おり」は、今も実際思っている、という意味。四句目の「凍てつく」へのつながりにふと、不安もありますが、このまま。

「おり」が今の仮名遣い、「せむ」はそうでない。「せむ」を生かしたいので「おり」は「をり」に「されたら、と。ばらずしって、関西のみの言い方でしたっけ?。


   京都には確か蒸し寿司の名店がありましたね。富美家といううどんのお店も。
   錦市場の雑踏も懐かしいです。


     ひらりんこ

   もう二月ですが、先月の末にふと詠みました。

一月に ここだけ春の甘い香(か)は
あなたが切ってくれた水仙

作為のまったく見えない、素直な一首。あのお皿さまの水仙とは真逆の存在です。

     かりそめ

*我死して二十年後に蘇生せば祖国あるやも覚束なくて

おそろしい仮定で始めて「覚束なくて」と緩めて下さる。私も日々感じつつ、あっち行け、と押しやっている実感。

*鉄橋にかかり列車の音変はる大河渡れば住みふりし街

電車の中でスマホのドレイ化しているひとびとには聞こえない音か。大河渡れば私のまち、なのですね。

*二筋の大河と海に囲まれて岬めきたり我が住む街は

作者のうたを読ませていただいていると、三十一文字の中に、どれだけみっしりと内容が詰まっているか、と、いつも感じます。一つ一つの言葉に無駄がなく、きちんと意味を成している、といいますか。深いです。

*なんとまあ四十年超す二人住み良しも悪しきも曖昧模糊と

おかしな言い方ですか、グレイゾーンの広さが魅力。

*野良猫の手に載るほどの小さきが命をかけてヒトを威嚇す

おお。ちび猫。命かけてヒトを威嚇するのか。頑張れ。頑張るしかないのか。最近こういうの、想うだけでダメなワタシ。泣いたって現実打破にはなりはせんのであるが。

     おてもやん

〇焼き牡蠣の殻を広げて身をはずす慣れた息子と尾道ランチ

就職してはや一年、の息子さん。 言葉と言うカタチになし得ない思いもおありか、とも。

尾道ランチ、というフレーズに魅かれました。尾道好き、また行きたいんです。


〇咳と痰止まらぬ母を病院へレントゲン撮り肺炎判る

   旅のうたをもう少しよみたかったのですが、今、病院から帰宅しました。
   母は、薬と通院で治せると思います。
   寒さと乾燥と花粉の折り、皆様もご自愛ください。

旅のうたはまた、思い出してお詠み下さい。ご高齢のお母さま、娘さんを頼りにしておられるでしょう。お孫ちゃんからお母さままで一身にかかって大変でしょうが、大丈夫だ、おてもやんさん。

     名前はまだ無い

   二度目の投稿になります。

デパートでいろんなチョコを試食みなおいしくて決まらずにいる

   文才がない人が初めて歌を作るとこうなります。
   皆様、うまいです。


「皇室ブログと競馬のファン」さん。HNはまだなのですね(笑)。もったいないな、なんぼでも素敵な名前、付け放題ですのに。

文才無いとは思いません。何度も書きましたが、私は、リアルな暮らしの中では平気で噓もつきますが、こういう場ではウソつきません。文才無くない。おうたを少しさわらせてもらいました。「する」を入れたんです。

「デパートでいろんなチョコを試食するみなおいしくて決まらずにいる」

ね。すんなりした一首になりました。もう少し、となると

「デパートでいろんなチョコを試食するみなおいしくて決められずいる」

これですと、自分の気持ちがもう少しはっきりしますかしらん。共感を呼ぶうたになっていますやんか。ね。


…きょうは確定申告するために苦手の数字にいっぱい、向き合いました。うわああ、数字こわかったよお、何回やっても計算合わないなんて、数字は生意気だと思いました。医療費たくさん使っていて、びっくりしました。

今夜はここまでとさせていただきます。言葉足らずはお許しください。





 *  分類 : みんなのうた
自動通知機能 : -  *  伝言 : 2  *  記事編集  *  2019年02月20日(Wed) 20時51分