元・宮司さまの「手記」について、最後。
三月に就任されたばかりの方が、十月の末には早急な辞任、となったこの話は、簡単にまとめられるようなものでない、と、思いますが、記事の終わりまで、とにかく読ませていただきたいと思います。
順番は前後しますが、天皇が靖国神社に親拝されなかったあたりのことについて。手記中、勝手に箇条書きにします。
・A級戦犯の合祀のことより・・・昭和天皇の最後のご親拝となった昭和50年当時は、政教分離の問題の方が昭和天皇の決断に大きな影響をあたえたとみるのが正しいと思う。
・昭和50年は、その前年に靖国神社の「国家護持法案」が廃案にされるなど政教分離が厳しく言われた時期。
・戦後30年ということもあり、それまで続いていたご親拝についても野党の厳しい追及が続いていた。内閣法制局長官の見解は、ご親拝は「私人としての行為」であり、公式参拝となると「憲法第二十条第三項(政教分離原則)の重大な問題になる、というものだった。
・昭和天皇の最後のご親拝は、その法制局長官の見解が出た翌日だった。
・靖国神社には抗議の垂れ幕が掲げられたほどだった。
こういう経過があり、昭和天皇は紛糾した事態をご覧になり、「やむなくご親拝を控えられるようになったと拝察しています」と、小堀元宮司は書いておられます。
・A級戦犯の合祀は、それから三年後の昭和53年のこと。昭和天皇が合祀に不快感を示されたのは事実かも知れませんが、時期はずれです、とも。
元宮司さまには、これ以上の書き方はなさりにくいことかと、僭越ながら拝察します。
・今上陛下も戦争の体験者ですから、戦没者のお参りに行きたいお気持ちはお持ちのはずです。しかし政教分離の問題だけでなく、いまは中国、韓国を含めて世界中から厳しい目で見られる。そこで考え抜いて出された答えが「慰霊への旅」と「全国戦没者追悼式へのご臨席」あったと思います。これは政教分離に触れずに、陛下の弔いのお気持ちをあらわすには、最善の方法かもしれません。
・しかし、この方法が続く限り、靖国神社の存在意義は希薄となっていきます。
小堀元宮司はこのように書いておられます。そして
「今上陛下は靖国神社を潰そうとしている」「この次は、皇太子さまはそれに輪をかけてきますよ」「少なくとも温かくなることはない、靖国さんに対して」と言ったのは、そういう将来に対する危機感を職員に持って欲しいという思いから思わず口に出たことでした。とも。
・・現・皇太子は、ごり押しに進められた「生前退位」の後を継いで、父陛下の後を踏襲してあれこれなされてゆくおつもりのように、見聞します。でもきっと、父陛下のようには何もかも、なされないでしょう。どんどんあれもこれも削って簡潔化して行かれるはず、目に見えています。
祭祀についてもそうです、皇太子は、しなくて済むことは勿論、しないで済ませて行く。靖国神社への参拝など、考えられることも無いとしか思えない、しかも、それは、おじじ様が途中から止められ、おもう様は長い間、されないままで来たこと。
ナルちゃんが、決然と「親拝を復活する」など、あり得ないことと思われるのが、自然だと、おもわれる。
「あと半年したらわかるよ。もし御在位中に一度も親拝なさらなかったら、今の皇太子さんが新帝に就かれて参拝されるか? 新しく皇后になる彼女は神社神道大嫌いだよ。来るか?」
とも宮司さまは仰っている。
・・・靖国神社が、ガラパゴス化している、と書かれた元宮司の話に戻って続けます。
・こうした危機を何とかしたいと、いくつかの試みをした。
その試みの一つ、第一回教学研究委員会に於いての音声が外部に流出して、小堀氏は辞任に追い込まれたのだったが
・財政や組織制度の問題を扱う企画委員会を立ち上げた、知識を確認するためのアンケートにこたえてもらった、基本的な設問ばかりだった。よく勉強している者もいた、幹部クラスでも低い点数の者がいた。
・優秀な職員に活躍してもらうために、人事異動も準備していた。靖国神社では、女性の事務職は定年までつとめても役職のない録事のままで昇進しない、そこで、改編をしようとしていた。
・非公開であった教学研究会の音源が外部に流出したのはその矢先のこと、
「色々と改革をやろうとしたことは一部の職員にとっては迷惑なことだったのかもしれません」
淡々と記しておられます。
「陛下にお越しいただくのは非常に難しいということは承知していますが、たとえ至難の業であるにしても「私人」としてなら何らかの方法があるのではないかと考えていました。教学研究会で私が「戦略」と言ったのはそのことです。
元宮司は、展示施設「遊就館」のリニューアルを考えておられた。
・創建百五十周年記念事業では、到着殿の休憩所の整備や(略)総額三十五億円にのぼる予算が計上されている、しかしハード面をいくら整えても、天皇陛下をお招きする理由になりません。
そうではなく(略)博物館並みの施設に改め、その記念式典に陛下をお招きする。そして遊就館にお越しになった「ついで」として靖国神社に足を延ばしていただくという方法です。
「靖国神社祭神祭日暦略」の改訂版を完成させた後、献上本を作り、ご覧いただくこともきっかけになるのではと期待していました。
現実には厳しいことはよくわかっています。来年は創建百五十年で平成最後の歳ということでご親拝をお願いしましたが
・掌典長にはこちらの原案すら受け取ってもらえず
・「五十年、百年の次は創建二百年が節目と言われました」。
小堀元宮司の「独占手記」は、以上のように進み、最後に、いちばん初めに引用させていただいた以下の言葉で、結ばれています。
「靖国神社に関して根本的な問題は、結局のところ悲しい生涯を送った御祭神を国や天皇陛下がどう扱うかということなのです。陛下には一度でいいから、せめてお近くにお越しいただき、二百四十六万余柱の方たちにおことばをかけてくださったらと切に切に思うのです。」
一銭五厘の旗。赤紙と呼ばれた召集令状を受け取って、どこへ行くとも知れず出征され、水漬く屍、草生す屍となって、あの時代の男のひとたちは。「靖国で会おう」と征かれた方々は、天皇夫婦の慰霊地にはおられない、みたまさまは靖国におられる。そう、小堀宮司は仰っています。そうなのだと私も、考えています。平成29年度までに数えられる神霊さまの数は、二百四十六万六千七百七十柱。新たにお納めする祭神は、今も天皇がお認めになるのだといいます。今年も新たに五柱お認めいただいた、と、手記には記されています。
私が感じているのは、この元宮司さまに、いささかの私心のおありにならないこと。
ただひたすらに、靖国神社という神社の宮司として、祀られている英霊さまがたの気持ちに「寄り添われた」、渾身の思いを捧げられたこと、そしてそれは、無残にも受け入れられなかった、跳ねのけられてしまった、ということ。
です。
きちんとまとめられなかったことを、お詫びします。