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Top Page › 皇室のことなど › 70年前のお誕生日に。
2018-12-24 (Mon) 22:55

70年前のお誕生日に。

平成30年12月23日。天皇陛下。お誕生日おめでとうございました。

イヤなことをするものよ、と自らをかなしみながら、再び以下のごとき過去の記事を貼り付けてしまう私です。

ご家族に囲まれてのあたたかいご祝宴、さぞ、お楽しいことであらせられたでしょう。

戦はすでに過去。そう、そうなのでしょうのに。

1948年(昭和23年)12月23日。敗戦の3年後、当時の皇太子・明仁の、15歳の誕生日のできごとでした。


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  東條英機・広田弘毅ら7人、絞首刑執行

>彼らの何が罪なのか、彼らだけの罪なのか。 歴史こそが最後の審判を下すはず。 <

           
1945/07/26   連合国、ポツダム宣言発表
1945/08/14   御前会議、ポツダム宣言受諾を決定
1945/08/15   玉音放送 (終戦の詔勅)
1945/09/02   降伏文書調印 (全権:重光葵、梅津美治郎/第二次世界大戦終結)
1945/09/11   GHQ、戦争犯罪人逮捕を指令① (東條・東郷ら39人)
1945/09/11   東條英機自殺未遂
1945/09/12   杉山元、ピストル自殺
1945/11/19   GHQ、戦争犯罪人逮捕を指令② (小磯・松岡ら11人)
1945/12/02   GHQ、戦争犯罪人逮捕を指令③ (平沼・広田ら59人)
1945/12/06   GHQ、戦争犯罪人逮捕を指令④ (近衛・木戸ら9人)
1945/12/16   近衛文麿、服毒自殺
1946/04/29   A級戦犯容疑者28人の起訴状発表
1946/05/03   東京裁判(極東国際軍事裁判)開廷
1948/11/12   東京裁判、A級戦犯25被告に有罪判決
1948/12/23   東條英機・広田弘毅ら7人、絞首刑執行
    東條英機、広田弘毅、板垣征四郎、土肥原賢二、松井石根、木村兵太郎、武藤章
1948/12/24   GHQ、岸信介らA級戦犯容疑者19人を釈放と発表

引用

花山は、東條につづいて板垣、木村、土肥原と面会を終えた。 そのあと彼は、モーニングの上に法衣をまとい、第一棟の一階一号室に駈けつけた。そこが仮りの仏間だった。

花山が水を入れたコップ七つとブドウ酒のコップ七つを準備してまもなく、 土肥原、松井、武藤、東條が二階から降りてきた。 午後十一時四十分だった。四人の姿を見た花山は絶句した。 彼らの姿はあまりにも異様だったからだ。 両手に手錠がかけられ、その手錠は両股と結ばれ固定してあった。 正装して死にたいという彼らの望みはかなえられず、アメリカ軍の作業衣のままで、 背中と肩のところにはプリズンの「P」の字が刷りこんである。 それが彼らの最後の衣裳だった。 靴はアメリカ陸軍の兵隊たちが履いている編みあげ靴、両足には鎖がついていた。 彼らの誇りは一顧だにされていない。

両側に立つ将校は、いつもとちがって身体の大きな者にかわっていた。 連合軍の警戒が厳重なのは、ニュールンベルクの教訓のためである。 処刑場にカメラマンをいれて処刑の様子を撮影させたため、被告は興奮状態になり、 あばれる姿がそのまま世界に報じられた。 これは死者への冒涜であるとして花山は総司令部に訴えていたが、巣鴨ではカメラマンは入れないことになった。 しかし七人が錯乱状態になって暴れることを想定し、がんじがらめにすることだけは忘れていなかった。 四人には暴れる徴候はなかった。

仮りの仏間での最後の儀式が行なわれた。 花山が線香に火をつけ四人に渡し、四人はそれを香炉にいれた。 辞世の句を書いてもらおうと用意していた筆と硯をさしだし、せめて名前だけでもと花山が言うと、 四人は動かぬ右手に筆を握り、土肥原、松井、東條、武藤の順で署名した。

つぎに花山はブドウ酒のコップを手にして、四人の口にあてた。 アメリカ人将校の差し入れのブドウ酒だった。 彼らはぐいぐい飲んだ。「うまいなあ」東條だけが声を発した。花山が『三誓偈』の一部を読経した。

護衛の将校が処刑場にむかうよう促した。 そのとき誰いうともなく、「萬歳を・・・・・・」ということになり、武藤が「東條さんに」と名ざしした。 すると東條は「松井さんに」と答えた。松井は彼の先輩にあたる。 松井が音頭をとり「天皇陛下萬歳」を三唱した。 ついで「大日本帝国萬歳」を三唱した。両手を下げたままの萬歳だった。

このころ「萬歳」は、アメリカ人が嫌うというので、あまり聞かれることばではない。 しかし四人の将軍は、アメリカ人のまえで三唱できたことに充足を覚えたようであった。 大日本帝国の「大」も「帝国」も消滅したのに、彼らは死の瞬間まで大日本帝国でしかものを考えられないことに、 花山はいささかの異和感をもった。

萬歳三唱のあと四人は、両隣りの兵士に「ご苦労さん、ありがとう」と言った。 それから花山の手を握り、期せずして同じことばを吐いた。

「先生、いろいろお世話になりました。 どうか国民の皆さんによろしく。家族もよろしく導いてください。先生もお身体をお大事に・・・・・・」

入口の扉が開いた。将校が先導し、そのあとを花山とアメリカ人教戒師が並び、 土肥原、松井、東條、武藤とつづいた。 そしてその後ろにさらに数人の将校がつづいた。 「南無阿弥陀仏」と花山が唱えると、四人は唱和した。花山は空を見た。 星が無数に散っている夜で、それはいかにも彼らの葬送にふさわしく思えた。

処刑場の窓からは電灯の光が洩れていた。 が、厚手のカーテンがかかっていて内部は窺えなかった。 ドアが開いたが、花山と教戒師の入場は許されない。 だが室内には明るいライトがあり、四つの階段が中央にできあがっているのが垣間みえた。 四人はもういちど花山の手を握った。 東條は数珠をはずし、花山に渡した。 そして身をかがめるようにして処刑場にはいっていった。

そのあと花山と教戒師は、いま来た道を戻った。 つぎの組の準備をしなければならなかったからだ。 三、四メートルほど歩きかけて星空をみた。 そのとき処刑場からガタンという音がきこえた。反射的に時計を見た。午前零時一分だった。

板垣、広田、木村も同じような儀式を終え、たんたんと刑場に消えていった。

総司令部の発表では、四人の死亡時間は午前零時七分から十三分までと分かれているが、 それは六分間から十分間、彼らが仮死状態にあったことを意味している。

そのあと花山は、処刑場内部へ招じられた。 七人は七つの寝棺に横たわっていた。 彼はひとりずつに念仏をとなえ、回向をつづけたが、どの顔にも苦痛はなかった。 平常心そのままに死に就いた七人に、花山自身は感銘にも似た気持を味わった。

保阪正康 「東條英機と天皇の時代(下)」


引用

新聞もラジオも七人の処刑を伝えたが、 そのことによって軍国主義が一掃されたかのようなとりあげ方であった。 憎悪と侮蔑で七人を謗れば自己証明ができるかのような無節操な論もあった。 彼ら七人を謗ることが一切を免罪するかのような意図的論調は、無反省で無自覚な国民心理を培養するだけであった。 やがて七人のなかの東條だけが〈普通名詞〉に転化していったのは、その培養の結果といえた。

東條英機の名誉も基本的人権も踏みつけであった。

ひとつの例をあげれば、ある有力な新聞が二十四日の朝刊に、 「幼児の心持つ東條――満足し死の旅に、夜通し祈った勝子夫人」と題して センセーショナルに報じた記事が指摘できる。 それは「この日勝子夫人は一切の面会をさけ独り静かに冥福を祈っていたが、 特に本社記者に次のような談話を発表した」と前書きして、東條はすでに幼児の心境になっていたとか、 これからの時代に東條の遺族として負けずに生きていこうとか書かれていたが、 この記事を書いた婦人記者松田某は、その日の夕方、この新聞をもって謝罪にかけつけたという。 また彼女は、判決宣告の翌日にも東條夫人の手記として、 「主人の精神的な命は敗戦と同時に終りました。 今は肉体的生命の有無は問題ではありません。 主人として死は願うところでしょうし、私共家族といたしましても主人の願うところはつまり家族の願うところであり・・・・・・」 といったような記事を捏造していた。 その日も訂正を求める家族に、「男性と伍していくには、こういうことでスクープする以外にないんです」と 得手勝手をいいつつ、問題を大きくしないように懇願して帰っていったという。

この種の記事がいたるところで見られた。 東條と舞踊家某との情事、連日の豪遊といった根拠もない話が氾濫し、 外地のある捕虜収容所では、思想改造の手っとりばやい方法として、 東條が酒色と金銭を目的に日本人民を欺いていたと、彼を卑劣な無頼漢にしたてあげた。

保阪正康 「東條英機と天皇の時代(下)」  


引用

かくしてもう十一時半にもなったので、私は大急ぎで一階にかけ降りて、 再び仏間の用意をし、コップにブドー酒をつぎ、水を入れたりして七人の到来を待った。 まもなく三階から処刑第一組として土肥原、松井、東条、武藤の四人の順で、列をつくって降りて来られた。 それぞれ二人の看視につきそわれていた。 両手には手錠がかけられ、さらにその手錠は、褌バンドで股に引っかけられていた。 極めて不自由な姿である。 着物はいつも着ていられた米軍の作業衣であった。しかしシャツは見えた。 クツは編み上げの日本クツであった。 係官から時間が七分しかないということをいわれたので、取敢えず仏間のローソクの火を線香につけて、 一本ずつ手渡し、私が香炉を下げて手もとに近づけて立てていただき、それから仏前に重ねておいた奉書に署名をしてもらった。 不自由な手ながらインクを含ませた筆をとって、土肥原さんから順に筆を揮った。 それからコップに一ぱいのブドー酒を口につけてあげて飲んでもらう。 さらに水のコップを私が少しずつ飲んでは、みなさんに飲んでいただいた。 東条さんの「一ぱいやりたい」も、どうやらこれで果され、大変な御機嫌であった。

その後、まだ二分あるというので、『三誓偈』の初めの三頌を声高らかに私は読んだ。 四人は頭を下げて、静かに瞑目して聞いておられ、終った時、

「非常に有難うございました」

とお礼をいわれた。それから誰いうとなく「万歳」という声が出て、たぶん東条さんと思うが、

「松井さんに」

というので、松井さんが音頭をとって「天皇陛下万歳」を三唱、 さらに「大日本帝国万歳」三唱を共に叫ばれた。

ブドー酒のあとで「お菓子はどうですか」といったが、みな入れ歯を取っていられたので、 歯がないからと遠慮されたが、松井さんに、やわらかいビスケットを一つ口の中に入れてあげたら、 もぐもぐたべられた。

以上の行事は、仏間ではせまくて、すべて廊下に立ったまま行われた。 この時、東条さんから、約束通り念珠を受取った。 松井さんも、手にかけておられたので、

「これを、奥さんに差上げましょうか」

といったら、

「そうして下さい」

といわれ、受取った。他の二人は、部屋(独房)の袋に残して来られたという。 やがてチャプレン・ウォルシュ師及び二、三人の将校にあいさつをして、それぞれしっかりと握手を交わされた。 私も、いちいちみなの手を握って、最後のあいさつをかわした。 いずれの方も非常に喜んで、長い間の労苦を感謝され、また、

「あとの家族のことをよろしく」

と頼まれた。時間は、刻々と迫ってきた。

出口の鉄の扉が開いた。当番将校先導で、その後にチャプレンと私がつづき、そのうしろに 土肥原、松井、東条、武藤の順で並び、両脇には看視、あとに将校が二、三名つづいて、 静かに中庭を歩んでゆく。その間、約二分ぐらいかかったが、念仏の声が絶えなかった。 とくに東条さんの声が・・・・・・。

刑場の入口(コンクリート塀)で、私は隊列を離れ、さらに四人と、 また一人一人手を握って最後の「御機嫌よろしゅう」をいったところ、

「いろいろ御世話になって、有難う。どうか、また家族をよろしく願います」と、 みなにこにこ微笑みながら、刑場に消えられた。 あとで聞いたところ、台上では四人とも、最後の南無阿弥陀仏を称えていられたということだ。 急いで仏間に帰る途中、ガタンという音をうしろに聞いた。時計をみると、午前零時一分だった。

仏間に戻って、再び用意して待っているところへ、第二組の三人、 板垣、広田、木村さんが降りて来られた。 顔を合せると、すぐ広田さんが真面目な顔で、

「今、マンザイをやってたんでしょう」といわれた。

「マンザイ? いやそんなものはやりませんよ。どこか、隣りの棟からでも、聞えたのではありませんか」

私も真面目に、こうこたえた。

「いや、そんなことはないが・・・・・・」

とにかく、今度は三人とも仏間の中に入ってもらって、お線香を一人ずつに、 前のように渡して立ててもらい、署名をされたあとで、今度は時間があったので『三誓偈』を全部読んだ。 木村さんだけは、眼鏡をかけて降りて来られ『意訳聖典』も持って来られたため、 私の読経中それを開けて読み、私の読経に合せておられた。お経の終ったあとで、広田さんが、

「このお経のあとで、マンザイをやったんじゃないか」といわれた。 私も、やっと気がついて、

「ああバンザイですか、バンザイはやりましたよ」といった。 それでやっと、マンザイがバンザイだとわかって、

「それでは、ここでどうぞ」

というと、広田さんが板垣さんに、

「あなた、おやりなさい」

とすすめられ、板垣さんの音頭で、大きな、 まるで割れるような声で一同は「天皇陛下万歳」を三唱された。もちろん、手はあげられない。 それから、仏間の入口に並んで、みなにブドー酒を飲んでもらった。 このときは、米兵の助けをかりず、私がコップを持って、一人一人全部に飲ませてあげた。 広田さんも、おいしそうに最後の一滴まで飲まれたし、 板垣さんの如きは、グッと元気よく一気に飲みほされた。 よほど好きらしかった。 木村さんだけは、半分以上残された。 余り、酒の好きな人でないと見えた。 次に、水を飲みかわして、しっかりと握手をした。 みな、にこにことあいさつをされて、

「いろいろお世話になりました。どうぞお大事に、また家族たちをよろしく」

たいへんに、感謝された。

それから、前のような列になって刑場の入口へすすみ、私はここで、前と同じように、別れた。 最後に、木村さんは頭を幾度も下げ、にこにこ笑って、私に、

「どうか、家内たちをよろしくお願いいたします。お世話になりました」

と、長いあいさつをして刑場に入られた。 中庭はそうでもなかったが、刑場の中はあかあかと照明に照らされていた。 この時も、また途中でガタンを聞いた。零時二十分だった。

花山信勝 「巣鴨の生と死」

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この、最後に7名にお会いになられた教誨師の花山信勝さんのお孫さんが、金沢市の宗林寺というお寺を継いでおられ、2年前の夏に、以下のようなことがあったと。当時の読売新聞が伝えていたそうです。

A級戦犯7人、最期の肉筆…遺書など一般公開<

 東条英機ら「A級戦犯」7人の処刑に、日本人でただ一人立ち会った教誨(きょうかい)師花山信勝(しんしょう)(1898~1995)の生家で、7人が最期に残した署名などを保管している金沢市の宗林寺が、戦後70年を機に遺品を一般公開している。

 信勝の孫で住職の勝澄(まさずみ)さん(59)は「戦後の始まりを振り返り、平和を考えるきっかけにしてほしい」と話している。

 公開されているのは、A級戦犯として絞首刑となった7人の署名や遺書の写しのほか、処刑直前に飲んだワインの瓶や、戦犯が拝んだ仏像など。これまで檀家(だんか)や研究者、報道機関など以外に公開されていなかった。

 東条の遺書は、処刑の約1か月前に信勝に託したもので「刑罰は私に関する限りは当然である」「ただ戦禍を受けた同胞のことを思う時、私の死刑によっても責任は果(た)されない。全く相済まぬと思っている」などと記されている。

 金沢市武蔵町の浄土真宗本願寺派・宗林寺で生まれた信勝は東京帝大教授を務めた仏教学者。1946年2月、巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)の教誨師に任命されて戦犯らと交流し、極東軍事裁判(東京裁判)で死刑判決を受けた戦犯の処刑に立ち会った。

 巣鴨拘置所で東条英機(元首相)、広田弘毅(同)、板垣征四郎(元陸相)、木村兵太郎(元ビルマ方面軍司令官)、土肥原賢二(元奉天特務機関長)、松井石根(元中支那方面軍司令官)、武藤章(元陸軍省軍務局長)の7人の処刑が執行されたのは、48年12月23日未明。信勝の著書「平和の発見」によると最期の酒としてワインが出され「悲しみも動揺もなく、平常心そのまま、『念仏』とともに死についた」とある。信勝は執行の間際に署名を求め、7人は手錠をかけられたまま揮毫(きごう)した。その絶筆は、同寺の石碑に刻まれている。

 勝澄さんは「歴史として冷静に振り返ってもらうには長い時間が必要で、一般公開は戦後70年を節目と考えた」と話す。

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「教誨師花山信勝氏のご子息花山初音陸将補は学習院で天皇陛下と交流があり、後に陸上自衛隊に一般大学卒(学習院)の幹部候補生として入隊されました。 第1空挺団勤務や富士教導団長等を歴任され退官後の講演を2度程拝聴させていただきました。 花山初音氏も鬼籍に入り数星霜… 教誨師の子が国防に生涯を捧げたエピソードも知っていただきたく、書き込みました。」

コメント欄にいただいた「鉄」さんの書き込みです。教えて下さいました。

ありがとうございました。

以上、引用ばかりではありますが。
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戦勝国アメリカは、日本の皇太子の胸に恐怖のクサビを撃ち込んだ。あっさりと殺しはしなかった。

小麦粉の会社の娘、クリスチャンの美智子さんを、皇嗣の妻にと送り込んだ。この夫人を、おそらくは(送り込んだ先の者たちでさえ)予想した以上に、誰より大切な存在として生きた陛下は、お幸せでいらしたのですね。泣くほど大事。誰より大事。羨ましいような件です。羨みはしませんが。その夫人が、重いものを一身に背負って絞首刑で逝かれた、そして今は靖国に眠る英霊がたを「A級戦犯」とお呼びになったのでした。

天皇陛下ばんざい、と、A級戦犯と呼ばれた方々は、散って行かれたのでした。死を賜る直前にも。

平成最後の天皇誕生日に、集った善男善女も、日の丸の小旗を打ち振って、唱えられたのでしたね。

天皇陛下万歳、と。

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最終更新日 : 2018-12-25

色々考えてみたのですが * by たまき
結局、今上陛下は(不敬ではありますが)
脳みそが少し他の人より足りないのでは
ないだろうか?

幼少期は侍従、終戦後はバイニング婦人、結婚後は愛する美智子様の言う通りに
してきただけの人で、「自分の考え」というものがなかったのでは?

いかにGHQの差し金で入内した美智子様でも、陛下にご自分の意思と強い気持ちがあったのなら、ここ迄「傀儡」に徹することはできません。

そう思わざるを得ません。

天皇の旅?
天皇の旅?
美智子さんの好きそうなフレーズですね。
天皇って「旅」なのね〜

追伸 * by たまき
戦犯と呼ばれて亡くなった方たちの
「覚悟」と
天皇を「旅」になぞらえる方とは
覚悟の質も重みも違うのでしょうね。

歯を食いしばらずには読めない * by 雪灯り
歯を食いしばって、気を強くしないと読めない記事でした。
悔しくて悔しくて、悲しくて、申し訳なくて、、、、。
大切な記事でした。ありがとうございます。子供達にも時期がきたらしっかり伝えます。

美智子皇后と雅子皇太子妃のことを考える度に、日本が戦争に負けた、というのはこういうことかと悔しく諦めに近い気持ちを抱いてしまいます。

しかし、今この時も、きっと国のために命をかけて戦ってらっしゃる名を知られないひとがいるに違いないとも思ったり。

諦めたら負け、ですよね。

No title * by KUON
・たまき さん

天皇とか皇族は、なまじカシコかったらしんどくてやってられへん、とかいうものらしいです。最近は、そうやろなあ、と思います。でも、ツマが、美智子さんみたいなんだったので、エライことになってしまわれた、のか、なあ。

お一人で、にこやかに或いは栄誉礼を受けられる時のようにきりりと、なさっていると、流石に天皇陛下、の感じはします。失礼は承知の言い方をさせていただいてます。

美智子さん、たいへん優秀な女性のようにはやされての入内(?)でいらしたが。本を沢山読んだり、歌なんぞ詠んだりする女性特有の、肝心なとこ馬鹿、な方だったのでは、と。繊細と自分は思い、人はそう誤解しても、肝心な大事なとこは図太くて、神経の細い所は、自分の方だけを向いているという。

その奥方と、人生の旅をして来られて・・、

「しあわせ~過ぎて涙が∼出るの」とか。一人の御老人の述懐と聞けば、よろしゅうございましたわね~、でしょうが、天皇さんのあの姿は、と、全文ご紹介する気になれないままの私は、情のこわい、きつい、優しさの少ないおんな、なのでしょうかしら。実際そうではありますんやが(笑)。

共犯者になりましょう、きっと脳みそが、脳みそが、ねえ。

No title * by KUON
・雪灯り さん

広田弘毅元首相のご遺族は、後、靖国神社に合祀の話を、お断りになっておられます。勝手な推測は慎まなくてはなりませんが、お一人お一人の、それぞれのご遺族にはそれぞれの、思いがおありだったのですね。当然。

それにしても。何度読んでも、皆さまの堂々たる態度、男らしさ、人間らしさに打たれます。屈辱的な姿での絞首刑。獄衣のままで、武士で言えば切腹を許されずの死。愚痴も泣き言も口にせず「家族をよろしく」が、精いっぱいの言葉でいらした。

読み直して、公人中の公人である御身を、感情の揺らぎに任されて発言された今上陛下の、お姿が、なんとも。ご高齢の方に、思いやりの無いことを書いているとは分かっています。でも。

負け惜しみでも意地でも何でも。いざ、の時は、通したい何かがあるのではないかと。そう思えてならないのです。

好きではないが「にんげんだもの」という言葉は、なお、その上のギリギリを、越えてなお、のその時に、折れたり泣いたりって、あるよね、ということなのではないかと。

ダラダラ垂れ流さないであらしゃっていただきたい、とか思っても、次代さんは(私はあの方を天皇と認めないけど)一層あれこれ、垂れ流しておいでになるのでしょうね。

平成の方がマシだった。残酷でもあるそんなことばが、すでに、聞こえてくるようです。

「ナル立ちぬ、いざ、生きめやも」とか笑っていいでしょうか(笑)。



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色々考えてみたのですが

結局、今上陛下は(不敬ではありますが)
脳みそが少し他の人より足りないのでは
ないだろうか?

幼少期は侍従、終戦後はバイニング婦人、結婚後は愛する美智子様の言う通りに
してきただけの人で、「自分の考え」というものがなかったのでは?

いかにGHQの差し金で入内した美智子様でも、陛下にご自分の意思と強い気持ちがあったのなら、ここ迄「傀儡」に徹することはできません。

そう思わざるを得ません。

天皇の旅?
天皇の旅?
美智子さんの好きそうなフレーズですね。
天皇って「旅」なのね〜
2018-12-25-06:04 * たまき [ 返信 * 編集 ]

追伸

戦犯と呼ばれて亡くなった方たちの
「覚悟」と
天皇を「旅」になぞらえる方とは
覚悟の質も重みも違うのでしょうね。
2018-12-25-07:08 * たまき [ 返信 * 編集 ]

歯を食いしばらずには読めない

歯を食いしばって、気を強くしないと読めない記事でした。
悔しくて悔しくて、悲しくて、申し訳なくて、、、、。
大切な記事でした。ありがとうございます。子供達にも時期がきたらしっかり伝えます。

美智子皇后と雅子皇太子妃のことを考える度に、日本が戦争に負けた、というのはこういうことかと悔しく諦めに近い気持ちを抱いてしまいます。

しかし、今この時も、きっと国のために命をかけて戦ってらっしゃる名を知られないひとがいるに違いないとも思ったり。

諦めたら負け、ですよね。
2018-12-25-15:22 * 雪灯り [ 返信 * 編集 ]

今も夢見る No title

・たまき さん

天皇とか皇族は、なまじカシコかったらしんどくてやってられへん、とかいうものらしいです。最近は、そうやろなあ、と思います。でも、ツマが、美智子さんみたいなんだったので、エライことになってしまわれた、のか、なあ。

お一人で、にこやかに或いは栄誉礼を受けられる時のようにきりりと、なさっていると、流石に天皇陛下、の感じはします。失礼は承知の言い方をさせていただいてます。

美智子さん、たいへん優秀な女性のようにはやされての入内(?)でいらしたが。本を沢山読んだり、歌なんぞ詠んだりする女性特有の、肝心なとこ馬鹿、な方だったのでは、と。繊細と自分は思い、人はそう誤解しても、肝心な大事なとこは図太くて、神経の細い所は、自分の方だけを向いているという。

その奥方と、人生の旅をして来られて・・、

「しあわせ~過ぎて涙が∼出るの」とか。一人の御老人の述懐と聞けば、よろしゅうございましたわね~、でしょうが、天皇さんのあの姿は、と、全文ご紹介する気になれないままの私は、情のこわい、きつい、優しさの少ないおんな、なのでしょうかしら。実際そうではありますんやが(笑)。

共犯者になりましょう、きっと脳みそが、脳みそが、ねえ。
2018-12-26-21:05 * KUON [ 返信 * 編集 ]

今も夢見る No title

・雪灯り さん

広田弘毅元首相のご遺族は、後、靖国神社に合祀の話を、お断りになっておられます。勝手な推測は慎まなくてはなりませんが、お一人お一人の、それぞれのご遺族にはそれぞれの、思いがおありだったのですね。当然。

それにしても。何度読んでも、皆さまの堂々たる態度、男らしさ、人間らしさに打たれます。屈辱的な姿での絞首刑。獄衣のままで、武士で言えば切腹を許されずの死。愚痴も泣き言も口にせず「家族をよろしく」が、精いっぱいの言葉でいらした。

読み直して、公人中の公人である御身を、感情の揺らぎに任されて発言された今上陛下の、お姿が、なんとも。ご高齢の方に、思いやりの無いことを書いているとは分かっています。でも。

負け惜しみでも意地でも何でも。いざ、の時は、通したい何かがあるのではないかと。そう思えてならないのです。

好きではないが「にんげんだもの」という言葉は、なお、その上のギリギリを、越えてなお、のその時に、折れたり泣いたりって、あるよね、ということなのではないかと。

ダラダラ垂れ流さないであらしゃっていただきたい、とか思っても、次代さんは(私はあの方を天皇と認めないけど)一層あれこれ、垂れ流しておいでになるのでしょうね。

平成の方がマシだった。残酷でもあるそんなことばが、すでに、聞こえてくるようです。

「ナル立ちぬ、いざ、生きめやも」とか笑っていいでしょうか(笑)。


2018-12-26-21:39 * KUON [ 返信 * 編集 ]