カーティシーが
美しい動作が身について・・・所作、という言葉が使われるようですが・・・お辞儀や椅子への掛け方や話しかけられた時の対応のしぐさやエトセテラ、見ていて心地よい方がおられるとします。
親御さんの薫陶だとか躾のよろしさとか、ご本人のこころがけとか。育った環境に負うところも多くあるでしょうし、若い女性の場合は特に、その方自身とかおうちのありようとか、大変、すてきなものと判じられることが、多いような気がします。
いいなあ、素敵だなあ、さすがだなあと。
お行儀のよろしいことは、素敵なことと、私も思います。下品でガサガサして無作法、なんてのよりは、圧倒的に、身のこなしは綺麗なのがいいと思います。
しかしそれは、判断の一つのアイテムに過ぎない気もします。
しっかりと躾けられてどこへ出ても恥ずかしくない振る舞いが可能で、も、それが彼女のすべてを保証するものではない。
あるときにふと。本人の気持ちの隙間にしゅるしゅるっと、暗緑色の蛇のように入り込んで、なんとなく違うように感じてはいたが明らかな疑問の解消や納得のきっかけに絡まるような、異世界の危険なモノ。を、垣間見てしまって。
本当に求めていたのはこれなんだ、自分が求めていたのは、この野放図、無秩序、甘やかに品下れるもの、そんなの関係ないね、縛られることなんかないんだよ、の。規制の無い、単なる無責任なのではある、そんな匂いに引きずられて。
おそらくこれが、自由、真実、解放、なんだ・・。
恋なのだわ。
と。思いこまれた、多分。
美しいお辞儀は、身に着いたものとして即座に損なわれること無く、さすが、の判断の材料の一つとして、残るのでしょう。
ではありましょうが。
私の思い、です。
結婚したいなら、なさればいいのです。でも自分で生きて行く道を、行くのです、それはもちろん。
あれはしたい、これは残したい、それは欲しい。ということなのでしょうか。通りませんそんなこと。
結婚は、大人のすることです。
結婚は、大人のすること。
自分としてシャキッと立って、すること。
何も持たないで、行きたいところへ行かれればいいのです。それを望まれるなら。それが望みなら。
・・・カーティシーが、どれほど美しく出来たとて。それが何ほどのこと。彼女の今後の何の役に立つ。
一般論ではなくなってしまうが、あのオトコのかたわらにいて、あのお辞儀をしていたら・・・想像すると悲惨すぎる、そぐわないことこの上無し。見るに堪えない状況であろうこと、必至。
そんな思いが、その結婚話を耳にした時に私の脳裏に、苦く苦く浮かんだことでした。
・・・・・・・・・コメントへのお返事は、明日、ゆっくり書かせていただきます。
まともにお辞儀もできないような方については、きょうは、お口ふさいでおきます。
ほんと、いいかげんにして頂きたい。