アントンとマリア
バス停には、古い木製のベンチが置かれている。そこに座って、バス通りの向かい側の遊歩道にカラスが遊んでいるのを眺めていた。大きな黒いつやつや太ったカラスが・・可愛いとはとうてい感じられない・・二羽、ひゅーっと一緒に飛んだり、まだ裸ん坊の桜の木の梢に止まってぴょんぴょん跳ねたり、甘噛みするみたいにつつき合ったり、まるで、実に、仲良く遊んでいる風情なのが、見ていて楽しかったのだ。
十五年も以前のことだったか。会社も工場も失って、家にはまだ住み得ていたが、すってんてんの状態になっていて、静かに支援して下さる会社が借りて下さった仮の工場に、夫と二人、通っていた。京都の大山崎。サントリーの工場のある、うんと山の奥の方に。奈良から。
壁というか塀と呼ぶか、トタン張りで、天上も同じくトタン張り、広さはあったので支える柱はけっこうしっかり立っていた。コの字型にトタンでできた作業場で、前面は完全オープン。入り口と限定されるモノは無く、道路から回り込んで前方の空き地に車を停め、そのまま、古いスチール机や大小も形もさまざまな椅子や書類棚などが雑然と並べられた「そこ」へ、家から持ってきた弁当やお茶や水などを、置いて、すぐに仕事にかかるのが常だった。
物置場で、仕事をしていたのだった。電気も水道もひいていなくて、水は、18リットル入るタンクを持ち込んでいた。細かい特殊な粉を扱う仕事で(と、簡単に記しておく)、舅とその愛人が放漫経営で潰した会社を、潰れる直前に押し付けられていたのだから(バカだとさんざん言われた、事実そうだったのだと思う、が、仕方が無かったのでもあった、言うに言えないこともこの世には、たんと、ある)ああ、も、うう、も無い、それでも認めて後押しして下さるところがあって、仕事を授かっていたのだから、文句は無かったのであった。水は必需品で、顔や手を洗うのに大量に使う、当時は私も、平気でポリタンクを持ち運んでいた。
季節は夏であった。粉体を扱う、そして汗をかく。少し粉っぽくなったわ、洗って来ましょう。などという余裕は無く、人より余計に汗をかくタイプでもあり、粉と汗とでモロモロの顔や腕や首筋だったと思う、そんなこと、気にしてはいられなかったのである。とうぜん、朝は化粧もしないまま、弁当を作って家を出た。帰りに着替える作業用の服を積んで。
午前中、ほぼモノも言わずに仕事に励み、昼時になると、やっと本気で顔を洗うことができた。口の中も粉だらけだった。人けの無い山の中、思い切り豪勢な音を立ててうがいをし、かぶっていた帽子を脱いで、ぱんぱんとはたいた。ものすごい粉ぼこりがあがった。当時、私の髪は、薬品をあれこれ含んだ粉体にさらされ続けて、顔の皮膚も、ぱっさぱさだったと思う。
メガネもあらってすっきりして、座って、弁当をひらいた。適当に作った弁当、なんやかや詰め込んでいて、まいにち卵焼きは焼いていた。働いた後のお弁当は美味しかった。夫も黙って食べていた。世界中の誰からよりも、自分の父親にひどいことをされている人だった。
夏だった。目の前に、森と呼んでいいような、木ばかりのある、広い広い場所がひろがっていた。風が吹くと、名前も知らないその、濃密な生え方をしている沢山の木々が、ざー、ざざー、と風に流れた。風に揺れる木々の、葉擦れの音が、なんとも心地よかった。昼休み、と自主的に決めたランチタイムの終わるまで、弁当箱を片付けた後は、ぼうっとして、風と木の音を、聴いていた。本当にお金の無い時期で、希望を持ちにくい時期だったのでもあるが、たくさんの木が風に鳴っている音を、体中で聞きながら私は、なんとかなる、と思っていた。
なんとか、する。と。
いつも来るカラスが、二羽、いた。おそらくいつも同じカラスだと見ていた。
朝の九時前に着いて、ささっと荷物を置いて、作業台に就く。仕事が始まったら、いっしんに仕事をした。その間にカラスに、弁当やお菓子を取られるようになった。初めは、まさか弁当泥棒に遭うなど、思いもしなかった。けれど実際に、荷物は荒らされて、弁当箱が床に散らばっていて、中身は消えていたのだ。カステラなども消え失せていた。
カー子のしわざだ。夫が断定的に言った。はあ?。私には信じられなかった。
その次は、お結びを包んだ風呂敷ごと引きずられて、車を停めてある広場に残骸が散らばっていた。カラスに見られないように隠しておけ、という夫に、何言ってんだこの人は、のごとき気持ちがあって。であったが、お昼ご飯を取られては、悲しい。悲し過ぎる。夫は車を出して、かなり離れたあたりまで食べ物を買いに行ってくれたのだが、私は、弁当箱の中で冷めていい塩梅にカツ節となじんだごはんや、塩気をきつめに焼いた卵焼きを、木々の音を聴きながら食べるのが、楽しみだったのだ。
見てろよ、アントン。なめるなマリア。
猜疑の人となって私は、持参した弁当を、隠しに隠した。周り中、埃だらけの環境であるから、どこへでも無造作に包みを入れ込む気にはなれない。車の中はダメだ、腐ってしまう。アタマをしぼって、蒸れないようにくるみ、よごれないように隠した。お昼ご飯がなくなってがっかりすることは、無くなった。
ごめんね、アントン、ごめんね、マリア。なんとなく謝りたい気分で、お昼ご飯を食べていた。盗み弁当の叶わなくなったカラスたちは、かなり離れた上空でカァカァ鳴いて、わたしたちを見下ろしていたのだったし。
アントンとかマリアとかは、勝手につけた名前。アントンは「第三の男」という映画の主題曲の有名な、シタールの弾き手。アントン・カラス。マリアは、ソプラノ歌手の名前。マリア・カラス。マリア・カラスの「ある晴れた日に」や「ハバネラ」を聴くと、すぐに、涙が流れ出す。自動スイッチが入るみたいに、私は、泣く。
初めにおもいついた時、大発見をした気分になって、夫に、ねえねえ、と告げたものだった。夫は笑って聞いていた。当時、前後十数年の間、心身経済家庭の事情もろもろ、大変なことが山盛りあって、夫は、大量の歯を無くし、この時期の後に自分の家も失くし、内科的な病気も抱え込んだ。目もやられていた。が、死にはしなかった。死にはしなかったので、後に治療を受け、身を庇うこともできるようになり、今も、脳梗塞の後遺症でロレツまわらず意思の疎通に苦心しながら、未だに仕事を続けてニコニコと生きている。ついでに書くと、私の髪の艶も戻った、おかげさまで。
必死だった頃、夏の三か月ほど、まいにち通った京都の山奥の、木々の葉擦れの音、賢かったカラスたちのこと。
思い出した。