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2019-02-14 (Thu) 16:54

バレンタイン・デー。

今日は「ヴァレンタイン・デー」なのだとか。チョコレートを選ぶのは楽しいことで、先日、連休中に、必要なだけ選んで、お渡しするべきところにはお渡しして。ゴディ・などの店では、すてきな包装、お洒落なシールなど、買い物をするヨロコビを、ふんわりと味わわせてくれる。日頃食べるものでは3割引きシールのついた品を買うことがあっても  、チョコレートや花などは、なんというか、別物として、買うこと自体を愉しみたい・・。

もう五十年以上むかしの話になります、私が商業誌で小説デビューした作品のタイトルが「バレンタイン・デー」でした。十七歳だったと思います。小学館が発行していた「ジュニア文芸」という月刊誌。小さな顔写真もついて、そこには、制服姿で黒縁めがねをかけた私が写っていました。それを読んだと、集英社の「小説ジュニア」というこれも月刊誌の編集者が、コンタクトをもとめて来られ、学校の近くで会いました。喫茶店を指定されたので、私服で行きました。誰かが見ていて通報(大げさな・笑)、校長室へ呼び出されて叱られた・・・と言っても、当時の校長は、私の養父だったのでありました。

中学生の時にすでに、やらかしていたのでした。その時は学研・学習研究社という出版社が出していた「美しい十代」の、小説募集に応募して、年齢がとても若かったこともあってか、当選させていいですかと、問い合わせがあったそうで。問い合わせは、当時の私の自宅、養父の家にあったのでした。養父は怒って、そんなことはしないでもらおう、と、拒絶したそうで。そうで、というのは、私は知らされていなかったから。コトが終わってから、茶の間に正座で、お説教をいただきましたのでした。

いわく。もの書きなんぞにさせるために育ててはいない。もの書きなんぞは外道の道。後で知ったら、一位の小説には、三万円の賞金がもらえたのだそうで。五十四年前の三万円、いまでいえば幾らくらいだったのか。正直、お金より、活字にしてもらえなかったことが悲しかったのでした。

で、高校は、ヒマがあると余計なことをする、とばかりに、詳しくは書きませんが、朝も夜も勉強するシステムのところへ進み(このこと自体はイヤではなかったです、養父の家は私には居心地よくなかったし)、寮長、舎監、すべての方々に、私がイケナイことをしないように見ていてくれ、と。お達しがあったのだそうでした。単に高校長というのみでなく、養父は、その総合学園の理事だったし、他の面でも力のある人だったらしいのでした。寮長センセは真面目で立派な方でした。

心配かけては申し訳の無い、お忙しい方なんですよ。寮長センセに何度もため息つかせてしまっていました。

それなのに、私は、ものを書きたかった。書いたら認めてくれる人がいた。ひとに認めて欲しかった。主婦と生活社の雑誌にも応募したし、他にも。

知らされないままに握りつぶされた情報も多々、あったようでした。携帯電話の無い時代。電話は、寮の事務室にしか無かった。封書で来たものも、私の手には届かず、養父のもとへ行っていたそうで。

「バレンタイン・デー」の評判は、よかったようなのでした。夏休みに、実家のある名古屋まで迎えに行ってあげるからと、熱心な編集者の佐藤さん・仮名のお世話になって、佐藤さんの自宅に泊めていただくなんぞまでして、東京の風に触れました。

千代田区の出版社へ連れて行ってもらって、次の作品用の写真、撮ってもらって。ちょうどそこにいたから、と、加納典明さんに撮ってもらったようで。加納典明、知りませんでした。ものすごく沢山、バッシャバッシャと撮られるので、びっくりした。

そういう、いわば養父にナイショ、隠れるみたいなことが何度かあり、他の出版社の方にも世話になり・・・ロシア料理の「バラライカ」とか「ラテンクォーター」とかに連れて行ってもらい、初めて食べるものを食べさせてもらい、中で、いちばん良かったことは、インタビューを受けるために来ていたという、その、ジュリーのインタビューを、室内にいて、見せてもらったこと。

あ。あれは、高校出て二十歳過ぎてのことでしたか・・ごっちゃになりました、とにかく、ここ、年代は間違っていますけど書いてしまいます、一メートルの至近距離で見るジュリー、沢田研二の、かぐわしかったこと。肌は月の光のよう。まつげが長くて目は濡れ濡れと。唇はうす赤くて、ほとんど表情を変えずに話していたのだけど、すこし笑うと、すこし乱れているあんばいのいい白い歯が、唇に微かに引っかかってキランと光って、呆けて眺めている私の、何かどこかがゲシュタルト崩壊・・うまく言い表せられません、あの頃のジュリーの美しさって。・・・これは、もう一度書きます、二十歳過ぎてのできごと。

高校生で、派手なことはアカン、との校則をおかして、もの書きになってしまったワタシ、何度呼び出されて、どんだけ叱られましたか。

養父には申し訳ないことをしました。養父は私を、叱ることはできても、退学とか、そういう処置をとることはできなかったので。叱られるのは平気でなく、あれこれとココロざわめきました。

学寮では寮長センセににらまれていて、でも、陰ながら応援してるよ、と声をかけて下さる舎監サンもおられて。ナイショの通信を助けてくれる友もいて。とにかく高校だけは卒業して、そして、自分の世界を目指すのだ。と。キリリとそこだけは決めていて。朝から夜まで忙しい日々でしたけど、勉強はさぼらないで、そこそこの成績をキープ。お掃除きっちり。寮内の行事にもよいこで参加、GOGO大会バッキバキ、首おれるほどGOGO、でした・・など、思い出すと、面白い日々でございました。

思い出すとあれこれ、いっぱい、出て来ます。わたし、そんなにイケナイことしたのかなあ。少なくとも、養父の望んだワタシでなかったことは、確かなことでした・・養父には、ご迷惑いっぱいおかけして。ホントは、もっと、甘えたかった。なんて甘ったれたこと、言うてる場合ではないのでした。私は「外道」では、ダメだったんだ・・・。

忙しかった。そのさなか、私服で県外に出てはならぬ、であったのに、セオリー通り駅のトイレで着替えて、大阪は難波の「ナンバ一番」行ったり。そこを出てアタマの中ゆらゆらと歩いていて、ユリちゃんが見つけてたーッと駆け寄って、

「あんたヒデトやな、ヒデトやろ」と。必死に顔をのぞきこんだ、その、白いロングコートに冬なのにサングラスの、唇の色の悪い痩せた背の高いおとこのひとが、まこと、オックスの野口ヒデトだった、とか。

昔のことばかり思い出すのはどうとやら、言いますけれど。思い出したら懐かしい、笑えても来る、私だけの、あれがせいしゅんだったのか。五十年たって、はるかな日々を想う。私は淋しさに負けたのでありました。

高校時代、一人にだけ、バレンタインのチョコレートあげました。N・M・くん。どきどき、わくわく、しました。そういう行事があることを、彼は、知らないようでした。

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最終更新日 : 2019-02-14

* by Arwen
私も中学生のとき同級生の子にチョコレートをあげました。まだバレンタインデーが世の中に浸透していない頃のお話です。昔々の、小さな田舎町でのことで、チョコレートをあげたからと言って、進展したということもなく・・・懐かしく思い出しました。

No title * by 茉莉茉莉
中学の時から文才があったKUONさん。複数の編集者に才能を認められ、将来を嘱望されて、いつもKUONの書く原稿が採用されていたんですね。

寺山修司や井上ひさしなど一流の天才作家文化人や、当時の第一線の芸能人のジュリー、内田裕也、安岡力也などと接してきたKUONさん。
きらきらした才能と魅力を振り撒いていた事でしょうね。

そのKUONさんが、我が儘そうなお姑めさん(失礼!)に仕え、冠婚葬祭をそつなくこなし、文才を封印出来たなんて不思議です。よく我慢できたなぁ。

でも、逆に、そういう才能を封印出来る人ほど、社会的生活や一般人の仕事もちゃんと、こなせるんでしょうね。今は短歌で才能が開花していますね。



* by さやか
ああ、私も物書きになりたかったのでした。学生の頃です。大人になってから、新聞などに小さなエッセイをいくつか書いて夢は終了してしまいました。
その後、短歌や俳句に触れて言葉を削ぎ落とすことの魅力を知りました。KUONさんのブロクのお歌も楽しみなのです。

中学生の頃、作文は得意でも気持ちを乗せた手紙は書けませんでした。バレンタインでチョコレートを渡すこともなく。
今の私なら想いを伝える手紙を書けるかしらと考えましたが、やはり書けそうもありません。
私の中には意地っ張りな少女だった自分が今も息づいているのでしょう。

No title * by KUON
・Arwenさん

実際はどうだったのか、当時、バレンタインデーの名をを大きく広めたのはワタシだ、とも言われたりしました。まだ今みたいになっていなかった頃だったのだと思います。だから注目していただいたのかも知れません。

チョコをあげたからといって進展したというのでもなく、と書いておられますが、そのお相手の記憶の中に、何度か懐かしく蘇ったできごとだったかも。朴訥、純情だった当時の少年少女の姿が彷彿されます。懐かしい・・・。ジュリーの、京都のご実家のまわりを、ともだちと、ただグルグルし続けたのも、そんな当時のことでした。ストーカーなどという言葉も無い時代でしたし、大それた思いも無い私たちでした。すべてが夢の中のできごとのようです。。

・茉莉茉莉さん。

当時のイカしたおのこたちとは「接した」なんて近しいものではなかったんですよ(笑)。そばで眺めたというだけ、裕也さんはびっくりさせてくれただけ(笑)。いちばん綺麗だったのはジュリーさん、人とは思えないオーラだったのは、これは一緒にお茶いただいたピーター。そのくらいの「接し方」でなら、他にも少しずつあったような。野口ひでとさんはお母さんと離婚して離れ離れだったお父さんを、どっかの雑誌が探して呼び寄せて、「17」だったか・・会わせて。お父さんは普通に七三でネクタイ締めた方で、ひでとは、立ったまま会って、風呂敷に包まれたままのお土産もらって、泣いていた・・場面を、見た記憶がくっきりあります。今も頑張っていますね、真木ひでと。

私は、二十代でがっくり、ボキっと折れた自覚があって。あれこれありましたが、姑はとても「善き人」なんです。私の百億倍くらいの善人、ただ私が善人キライなだけ・・申し訳ないが・・婚家に入って短歌に出会えたことは、本当に幸せと感じています。子どもの、優しいお母さんでいたい望みが大きくありました。本気で考えていることは、これから、物語を書いて行けること。皇室のことなどに気持ちが行って、なかなか実行に至らなかったが、今の暮らしを始めて一年、ぼちぼち、再び、始めているのです。始めてる。ゆっくり進みます。

・さやか さん

物書きになりたい気持ちを持っておられた方とは、よおく、わかります。「夢は終了してしまいました」のお言葉の切なさも。

>作文は得意でも気持ちを乗せた手紙は書けませんでした。バレンタインでチョコレートを渡すこともなく。

ここ、実は私も、手紙はなかなか書けないんです。手紙むずかしい。電話で話すのもとっても苦手。ウソなら書ける(笑)。自分から離れた、自分のことでも「自分」でないようになら、なんぼでも書けるんです。うまく説明できませんけど。

さやかさん、書いて下さい、とか。書かれたら、とか。そんなことは、よお、言いません。でも、コメントいただいて感じたこと。

>私の中には意地っ張りな少女だった自分が今も息づいているのでしょう。

意地っ張りで、愛おしい少女よね、と、感じたこと、書かせてもらいますね。


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私も中学生のとき同級生の子にチョコレートをあげました。まだバレンタインデーが世の中に浸透していない頃のお話です。昔々の、小さな田舎町でのことで、チョコレートをあげたからと言って、進展したということもなく・・・懐かしく思い出しました。
2019-02-15-00:13 * Arwen [ 返信 * 編集 ]

No title

中学の時から文才があったKUONさん。複数の編集者に才能を認められ、将来を嘱望されて、いつもKUONの書く原稿が採用されていたんですね。

寺山修司や井上ひさしなど一流の天才作家文化人や、当時の第一線の芸能人のジュリー、内田裕也、安岡力也などと接してきたKUONさん。
きらきらした才能と魅力を振り撒いていた事でしょうね。

そのKUONさんが、我が儘そうなお姑めさん(失礼!)に仕え、冠婚葬祭をそつなくこなし、文才を封印出来たなんて不思議です。よく我慢できたなぁ。

でも、逆に、そういう才能を封印出来る人ほど、社会的生活や一般人の仕事もちゃんと、こなせるんでしょうね。今は短歌で才能が開花していますね。


2019-02-15-21:08 * 茉莉茉莉 [ 返信 * 編集 ]

ああ、私も物書きになりたかったのでした。学生の頃です。大人になってから、新聞などに小さなエッセイをいくつか書いて夢は終了してしまいました。
その後、短歌や俳句に触れて言葉を削ぎ落とすことの魅力を知りました。KUONさんのブロクのお歌も楽しみなのです。

中学生の頃、作文は得意でも気持ちを乗せた手紙は書けませんでした。バレンタインでチョコレートを渡すこともなく。
今の私なら想いを伝える手紙を書けるかしらと考えましたが、やはり書けそうもありません。
私の中には意地っ張りな少女だった自分が今も息づいているのでしょう。
2019-02-16-01:58 * さやか [ 返信 * 編集 ]

今も夢見る No title

・Arwenさん

実際はどうだったのか、当時、バレンタインデーの名をを大きく広めたのはワタシだ、とも言われたりしました。まだ今みたいになっていなかった頃だったのだと思います。だから注目していただいたのかも知れません。

チョコをあげたからといって進展したというのでもなく、と書いておられますが、そのお相手の記憶の中に、何度か懐かしく蘇ったできごとだったかも。朴訥、純情だった当時の少年少女の姿が彷彿されます。懐かしい・・・。ジュリーの、京都のご実家のまわりを、ともだちと、ただグルグルし続けたのも、そんな当時のことでした。ストーカーなどという言葉も無い時代でしたし、大それた思いも無い私たちでした。すべてが夢の中のできごとのようです。。

・茉莉茉莉さん。

当時のイカしたおのこたちとは「接した」なんて近しいものではなかったんですよ(笑)。そばで眺めたというだけ、裕也さんはびっくりさせてくれただけ(笑)。いちばん綺麗だったのはジュリーさん、人とは思えないオーラだったのは、これは一緒にお茶いただいたピーター。そのくらいの「接し方」でなら、他にも少しずつあったような。野口ひでとさんはお母さんと離婚して離れ離れだったお父さんを、どっかの雑誌が探して呼び寄せて、「17」だったか・・会わせて。お父さんは普通に七三でネクタイ締めた方で、ひでとは、立ったまま会って、風呂敷に包まれたままのお土産もらって、泣いていた・・場面を、見た記憶がくっきりあります。今も頑張っていますね、真木ひでと。

私は、二十代でがっくり、ボキっと折れた自覚があって。あれこれありましたが、姑はとても「善き人」なんです。私の百億倍くらいの善人、ただ私が善人キライなだけ・・申し訳ないが・・婚家に入って短歌に出会えたことは、本当に幸せと感じています。子どもの、優しいお母さんでいたい望みが大きくありました。本気で考えていることは、これから、物語を書いて行けること。皇室のことなどに気持ちが行って、なかなか実行に至らなかったが、今の暮らしを始めて一年、ぼちぼち、再び、始めているのです。始めてる。ゆっくり進みます。

・さやか さん

物書きになりたい気持ちを持っておられた方とは、よおく、わかります。「夢は終了してしまいました」のお言葉の切なさも。

>作文は得意でも気持ちを乗せた手紙は書けませんでした。バレンタインでチョコレートを渡すこともなく。

ここ、実は私も、手紙はなかなか書けないんです。手紙むずかしい。電話で話すのもとっても苦手。ウソなら書ける(笑)。自分から離れた、自分のことでも「自分」でないようになら、なんぼでも書けるんです。うまく説明できませんけど。

さやかさん、書いて下さい、とか。書かれたら、とか。そんなことは、よお、言いません。でも、コメントいただいて感じたこと。

>私の中には意地っ張りな少女だった自分が今も息づいているのでしょう。

意地っ張りで、愛おしい少女よね、と、感じたこと、書かせてもらいますね。

2019-02-16-11:59 * KUON [ 返信 * 編集 ]