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2019-02-24 (Sun) 23:06

「おう、帰ったか」

養父は厳しい人だった。私にもケジメを要求した。

高校を卒業するにあたり、学寮で一緒だったほとんどは、進学を決めていた。私は進学しなかった。したい気持ちはあったが、私には学問をつけさせたくないと養父は言った。

「女の子というものは、家に大根と人参のしっぽがあったら、これで皆に美味しいものを作って食べてもらおうと考えるものだ、それで幸せになれるのだ、お前はヨソむいた思考を持っているから先行きが不安だ、きちんとしつけてくれるところへ行って学ぶのだ、結婚する先は決めてあげるから」

当時の私は、そんな幸せなんか要らん。その思いしか無かった。そんな人生まっぴら、真っ暗、結婚なんかどっちみち、したくない、私は自分が稼いだお金で、自分の吸う空気を買いたい、買うんだ。

卒業式も済んで、寮を出る前、養家の広い寒い暗い部屋で、私は、三日後にはそこへ行け、と言い渡されていたA家へ行きたくなくて、どうしようもない思いに鬱屈していた。

で。養父の言うことが聞けず、突っ走ったわけだった。ドラマにあるように、ボストンバッグ一つとショルダーバッグだけで、黙ってその町を出た。お金は持っていた。すでにお金を稼ぎ始めていたのだった。

それから、完全に白旗かかげて戻るまで。二十四歳になる数か月前まで。一人で生きた。

家出を決行した私に、養父は徹底的だった。勝手に出たのだから家の敷居はまたぐな。それはわかっていた。母の暮らす家にも、人目のある明るいうちには出入りできなかった。昼間、母と会いたい時、というより、会う必要のある時には、外で会った。

学寮に残した荷物は、亡父の妹である叔母が引き取ってくれた。叔母は私の味方をして、怒っていた、母や養父に。叔母の気持ちは嬉しかったけれど、母も養父も悪くない、悪いのは、私なのだった。何度もそう繰り返した、叔母は、それでも、と、泣いて怒っていた。

「兄さまがいりゃあしたら、高校出たばっかの子を、こんな目に遭わせることもなかったのに」

それは確かにそうだったかも知れない、が、事実父は、私が五歳の時に、死んでしまっていたのだから。この叔母と叔母のだんなさんは、このことの前から後も、ずうっと、私の味方をしてくれていた。大恩人と思っている。

私は一人で暮らした。一人暮らしの中にいろんなことがあった。たくさん出会った編集者の中に、「こうしていられる間に、どこか大学へ潜り込んで出ちゃったら」と勧める人もいた。時代がそういう時代だった、新しい雑誌がどんどん生まれていた時代、書き手はどれだけでも要求される、食べるには困らないだろう、でも

「しっかりした作品が書けると思うんだよ、僕は。統計だった勉強もいいものだと思うよ」

そう、言ってくれた。なんとか原稿料で暮らしたり遊んだりしつつ私には、純文学とかエンターテインメントとか本物だとか筆が荒れたら終わりだとか、周囲で飛び交うさまざまな言葉が、さっぱり理解できていなかったのだと思う。わけもわからず、もらった注文を、いっしょけんめいにこなしていた感じ。

大学か。いいな、大学。明るい、華やいだイメージが、脳裏をいっぱいに占めた。自分でお金を払って大学生になれるなら。ほんわかと考えた。

どうやったら大学へ行けるのか。教えてもらって、高校を卒業しました、の証明をもらって、と。まるで得意でないそういうことを考え始めて、あっさり挫折した。正式には何と呼ぶものか、今も分からないままなのだが、それを、私は、手に入れられなかったのだった。確かに卒業はした。けっこういい成績だった。でも、それを、入手できなかった。養父には、そういったことをできる力があったということだ。

勝手に出て行った者である私に、そんなことはさせない。そういった意思表示が、そこにもあった。

・・そうなのか。私はすぐに諦めた。

大人になって独立するために大学を出るんでしょ、もうすでに今、人に憧れられるような仕事しているんだから、学校行くこともないんじゃん。

私に都合のいいそういうことを言ってくれる人もいて、それもそうかと思い・・胸は痛まなかったわけではない・・、忘れることにした。本はとんでもなく読んでいたし。音楽も聞きたいだけ聞いていた。思い立って夜行列車に乗って雪国へ行けたし、ほか、あれこれ・・。

同窓会やクラス会の知らせも来なかった。私宛にはそれは、来なかった。養父に逆らい、自分の意志を通すということは、私には、そういうことだった。友人が教えてくれたりすることは、それは、それなりにはあった。

そんな歳月のうちに。

誰のせいでもなく、自分自身の心が、ぐっさりと倒れてしまって、もうどうしたらいいのかわからない。そんな自分に、なった。

・・・唐突ではあるが。マルグリット・デュラスの原作を映画化した「ラマン」という映画があった。・・・「十五で私は年老いた」とかいう惹句で、かなりヒットした映画だった記憶がある。私も観たかな・・映画の内容は、私とは全く関係の無いようなものだった、が、

「十五で私は年老いた」

その惹句は、奇妙に、すでに二人の子の母親になっていた私の、気を引いた気がする。
二十四歳って、そんなに「終わっている」年齢ではなかったと今も思う。しかし私は、疲れて、とても疲れて、もう生きてなんかいられない、といった気分のなかに、アタマのてっぺんまで漬かりこんでしまって。

養父に連絡を取り、その年の三月の初め、およそ六年ぶりに、その家の格子戸を開けたのだ。

茶の間にいた養父の前に進み出て、頭を下げて、お辞儀をして。どう言えば、と数秒迷ったアタマの上に、

「おう、帰ったか」
そんな声が降った。私は、ぐっとこらえて、帰りました、と言った。

申し訳ございませんでした、と。

顔を上げると、養父は笑っていた。顔を伏せて私は、ごめんなさい、と言った。

ものすごくたくさんの迷惑をかけたと思う、私は、養父に。周囲の人々に。でも本当は、周囲の人々・・懐かしくて尋ねたら、あなたを受け入れてあげられないのよ、と玄関先に仁王立ちだった学寮のセンセイや。いやいや、もういい、そのあたりのことは、悪いけどいい、

私は、養父が何も言わなかったことが、その時、そのことが、ただ、本当にうれしくて、安心だったのだった。

追記。書き終えて調べてみたら、デュラスの「ラマン」、「十五で私は」でなく「十八歳で・・」でした。なんで間違ったのか。どうもすみませんでした。」


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最終更新日 : 2019-02-25

* by 雪灯り
そんな.....お辛いことが......
よろしければまた色々お話し聞かせてください。

No title * by KUON
・雪灯りさん

ううん、辛いとか、そういうことでなく。しまっていたことも書いておきたくなっているってことで、これからも書きたいように書いて行くと思います。

創作にできることはもう、時間的にもそんな多くは難しそうなので、ブログがあるので、書いて行こうと。私はいつでも、けっこう楽しんでいたんです、ないしょ。(笑)。

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そんな.....お辛いことが......
よろしければまた色々お話し聞かせてください。
2019-02-25-10:02 * 雪灯り [ 返信 * 編集 ]

今も夢見る No title

・雪灯りさん

ううん、辛いとか、そういうことでなく。しまっていたことも書いておきたくなっているってことで、これからも書きたいように書いて行くと思います。

創作にできることはもう、時間的にもそんな多くは難しそうなので、ブログがあるので、書いて行こうと。私はいつでも、けっこう楽しんでいたんです、ないしょ。(笑)。
2019-02-25-20:54 * KUON [ 返信 * 編集 ]