「冷たい夜に一人」
何度も棲み処を変わりました。ひとりでの暮らしに慣れ、朝から夜までの過ごし方に自分流の好みが出てくると、もっと一人になってしまいたくて、住まいを変えたりしました。東京や名古屋や岐阜県の高山、長野、もっとあったような。
名古屋市内の母親の家には、基本、出入りを禁じられていました。時には夜、帰りました。泊っても朝には出て行くのだと思うと億劫で、外へ呼び出して昼ご飯を一緒に食べたりしました。母は小食で、必ず、せっかくのモノだけど全部はいただけない、と言うのでした。それを、黙って平らげることもあったし、知らんふりして残しておくこともありました。母はコーヒーが好きでした。
名古屋の、昭和区に、いっとき住みました。初めは昔ながらの下宿屋、好奇心で二階に住んでみましたが、すぐに、出た。玄関横に大家の一家の茶の間があり、出るも帰るも奥さんの視線の中、こりゃダメだ、と、出たのです。部屋の二面が格子窓で、周りの家々の屋並みの向こうに夕陽が見えて、夕焼けがきれいで、抒情的な住処ではありましたが、高校時代の数少ない友達が、訪ねて来て、二日ほど泊って行ったことがある、彼女が帰って行ったあと、甘いものを少し持って、挨拶してみたら、
「お泊りは遠慮して欲しいんです、畳が傷みますでしょう」
笑っているのか泣いているのか判じがたい笑顔の、指えくぼのある奥さんでした。はいすみませんと返事したものの、うひゃあ、畳が傷むか。びっくりして、それもあって、退出しました。
田の字型に、まんなかに廊下がある式の、倉庫を改造したアパートの、ひと部屋を借りました。隣が不動産屋の事務所で、夕方までしか人がいない。向かい側は、どうも夜の仕事のおんなの人のようで、夜がとても遅い。斜め向かいは、学生同士の同棲モノでした。学校行かずに、勤め人みたいにアルバイトにばかり行っている気配の男の方は、人が好さそうでモンダイ無かった、女の方は、わたし年上と、聞いてないのに私に告げ、夜のおねえさんが外に置いている洗濯機を勝手に使っていて、不動産屋の自転車にも、ときどき勝手に乗っているようでした。私はこの、なぜかこれも大学生だというおんなが嫌いで、顔が合えば顎だけ動かすみたいに挨拶もどきだけをして、口をきかないようにしていました。親しそうになってしまえば、パンでもレコードでも新しい布巾とかなんでも。借りに来そうな女でした。なにより、ぶさいくで。和風のうりざね顔、そこそこのはずが、私には、とてもブサイクに見えたのでした。私が何の仕事をしているかは、言いませんでした。
電話もファクスも無かったけれど不自由はなく。四百字詰め原稿用紙に、こちこちと、万年筆で文字を書きました。万年筆は、お気に入りのパーカー。インクもパーカーのブルーブラックを使っていました。原稿ができたら、紙の紐で閉じて、郵便局へ出しに行きました。親切な編集者さんがたと、離れて暮らしたくて、そうしていました。
その頃は、長谷川きよしの歌ばかり聴いていました。テレビを持っていたけれど、ほとんど見なかった。全く上等ではないプレィヤーを買ってそれに満足していて、そこに、静かに、そおおっとレコード盤を置いて、針をのせて。長谷川きよしばかり聴いていました。好みの曲を、あちこちから集めたテープを持っていて・・誰かが作ってくれた、やさしい人はどこにも沢山、いました。お礼はほぼ、スイスという店のスバゲッティか、凡愚という店のハムトーストか。コーヒー付きで。名古屋の喫茶店は、コーヒーに、必ず、豆がついて来ます。テープとかそういうものを作ってくれるのは、いろんな大学が周囲にあって、街には大学生がわんさと歩き回っていた、そういった人たちが、してくれたのでした。そういった親切な男の子たちを、部屋に入れることは、ありませんでした。
長谷川きよしは、どんなジャンルの歌も自分のものにして唄う人です。
「冷たい夜に一人」を、飽きもせず、聴いていました。
「別れのサンバ」も、まいにち、聴いていました。時にはヘッドフォンをつけて、ジャニス・ジョプリンを聴きました。「ジャニスの祈り」「クライ・ベイビー」。
長谷川きよしの歌は、ヘッドフォン無しで聴きました。時間の経つのは気にしないで、ずっと、聴きたいだけ。
この頃、また、夜、音を小さく、聴いています。好きな歌を心行くまで聴けるなんて、とても幸せではありますが、昔、若かった私のように、夜が深く更けるまでは、聴いていられない。体力が無くなりました。