お雛さま捨てた
会社をつくった舅も一緒に暮らす長い仲だった女性も、すでにどん詰まりの状態だった。無理して保たせていた会社はメリメリと倒れかけており、そうなってからあわてて社長職を押し付けられていた夫はもちろん役立たず呼ばわり、その夫の家(ワタシの家でもあった)も義弟夫婦と姑が暮らす、再婚するのにヤクソクしたからと建て直して十年にもならない敷地100坪余の家も、抵当に入っていた。工場の敷地が1800坪、他県にあった古い工場の跡地が100坪だか150余坪だか(見たことが無い)、宅地用の土地がやはり200余坪。舅たちの豪奢な家も抵当に入れられていると、舅の愛人は泣いて怒って・・自分の家だけは舅が守ってくれると信じていたそうだ・・前を通ったことも無かったが、ししおどし(鹿威し)のある、本格的な茶室をしつらえた和風の家だったそうだ。私の家なのに、うちの子小さいのに、とわめかれても、私は、知らん。自分の父親や弟の分までタイムカード押して給料支給していた経理上がりの彼女は、お金が大好きな人だったのに、家を失くすとは気の毒なことだった。
姑と義弟夫婦の家も、立派なものだった。快速急行の停まる駅から徒歩5分。二階には義弟の妻のための防音レッスン部屋があり(そこを引き上げる手伝いに行くまで、私は二階に上がったことは無かった)、衣装部屋もあったとか。姑は、書道の教室を開き、短歌結社の本部を引き受け、一階の大きな部屋を三つ、自分のものにしていた。
夫と私の家は、ローンをようやく払い終えたこじんまりした家であり、住んで20年余、それなりのガタが来ていた。会社の倒産で手放すには、いちばん未練が少なくて出て行きやすいのは、私たちだったかもしれない。
とはいえ。いつ、出て行くことになるかは分らないのだった。任意売却を希望してはいたが、なかなか難しいようだった。ギリギリまで私は知らなかったが、競売にかけられていて、どちらにしても、私たちの手にはお金は入っては来ない、と聞かされていた。晩年の十年ほどを共に暮らし、仕事ばかりしていた私の代わりに、娘たちの食事など家のことをしてくれた母は、鎖骨を骨折して入院、寝たきりになりそうだった。私は、なんとか、母を最期まで、看取りたかった。ケアマネージャーに相談もし、介護用のベッドも借りて入れて、母の退院してくる前には店を整理して。止めていたし。なんとか頑張りぬきたいと願っていたのだったが。会社の不穏と同時に娘の一人が、幼い孫を連れて離婚、帰って来て、娘は働きに出なければいけないし、まだ赤ん坊の孫息子を私は見ていて、つまり一言で言うと、ものすごく大変な時期だった。
お金なんか全くなかった。
そういうことが事実あるのであるが、どうやってそうしたのか、私の名義で(も)大量の借金が銀行になされていた。義弟も、夫の名前私の名前で、消費者ローンでお金をこしらえていた。姑は、植木屋さんに来てもらわんならんから〇〇円持ってきて、と。そんな時にも電話してくる人だった。
「植木屋どころではないでしょう、今」。声を荒げた私に、「ご近所にかっこ悪いねんもん」と言い放つ。「あ、そうなんですか。おかあさんはそうなのよね。でも、ウチは、電気止まってたんですよ、昨日まで」。言うてさしあげると、「へえ、なんでそんなことに」、と、なる。このへん、まこと事実なのであった。「そしたら植〇さんに、どう言うたらええの」ずっと、年二回来ていた植木屋に、断る理由が無いと言う。「お金が無いって、ホントのこと言うて下さい」「信じはらへんわ、そんなん」「ウチは、電気代ガス代で必死なんです」「よお、そんなこと言うなあ、あんた、長男のヨメやのに」相手になっていたら、ハラワタが頭のてっぺんに昇ってくるような時期ではあった。
姑と、義弟夫婦と。舅や夫が、お尻に爆弾しかけられたように目を吊り上げて走り回っている時も、魂を高めるためと称して、大好きな海外への旅に出て行く三人組だった。このあたりのことは、理屈でどうこう、なことではない。無茶をする人々と言うものは、表向き平気な顔で、なんだってやってしまうのである。姑は、舅が勝手をしているのだから、目をつむっていてあげるのだから、少々のことをして「何が悪いねん」の気分だった。義弟は,仲の悪い両親の真ん中で、「気苦労をしながらつないできた自分」の気持ちがあったようだ。そんなん、私は、知らん。
・・・今夜もまた、始めに書きたかったことと離れて行っている。
お雛さまを、捨てた。
かいつまんで言えば、母は、次姉夫婦が引き取ってくれた。いつ出て行かなければならないかわからない家に、退院して寝たきりになった母を置いておけない。実際、競売でわが家を「落とした」という人が訪ねて来てから5日で、家を明け渡したのだから、早いことそうしておいてよかった。この話はなかなか辛いことであったので、簡単に記す、母は、だまされるように、二番目の娘のところへ、行った。母の乗った車を見送ってから、泣いた。
母の件は済んだ。娘と孫息子の話は、いずれ書くだろうが、今は先へ進む。
荷物の整理、始末をしなければならなかった。アタマの中は疲れていて、次に来る暮らしがどんなものになるか、想像するのが難しくなっていた。気になっていたのが、お雛様だ。
七段飾りの雛人形。毎年欠かさず飾っていた。五人囃子の一人の、探してもどうしても見つからない横笛を、焼き鳥用の串を利用して、色を塗ってそれらしくして・・止めよう、進もう、
その雛の幾つもの箱を、どうしよう。
結果、持って行った。奈良の正暦時というお寺へ。古い由緒のあるお寺、清酒の発祥の寺とも聞いた。お雛さまを、引き取って、まとめて燃やして、供養して下さると。
長押(なげし)から降ろして、最後に、お顔を包む半紙を取り換えて、お内裏さまもお雛さまも。官女も囃子も従人たちも。牛車、お駕籠、お膳や徳利さまざまの道具。右近の橘左近の桜、何やかや一切合切。市間さんも有り過ぎたぷーさんも、バービー人形もぜんぶ。
家を失う、新しく借りるためのお金は無い。人形たちとは別れておこう、人間が身を寄せる場所の見当のつかない今。そう思った。
供養して下さると言う、お焚き上げのその日まで預かって下さると言う、私は、そこへ行くしかないと思い定めて、その日、お寺を訪ねた。
預かって下さると、実際に聞いて、ほうっと肩の荷がおりた。遠くは私の幸せ、そして娘たちの幸せ、願ってまつって来たお雛さま。
わずかなお包を渡すと、大柄なお坊さんが静かに受け取って下さり、お経をあげて下さった。初めに出て来られた時と装束を替えて、一緒に唱えるよう促されて、朗々と、長く、祈って下さった。私も般若心経は唱えられる。僧の声について、小さな声でお経を誦した。少ないお包の内容、申し訳ない思いがした。お経は私の心を慰めてくれた、初めてそんな経験をした。
さようなら、お雛さま。こうするしかなかった。ごめんなさいね、こうするしかなかった。これで、よかったと思う。
・・報せが来たが、お焚き上げの日には行かなかった。火に包まれる人形たちを、見ている勇気が、あの時の私には無かったし。正直、すでにその時、私は・・私たちは、家を移っていた、正暦寺へ行ってほどなく「りんごのおじさん」は現れて・・開口一番いつ、出てってくれはりますか、と来られたのだった、その人は。私たちは、身の回りすっきりと、次の暮らしの場所へ移っていたのだった。