FC2ブログ
ガラスの店を営んでいた時の話。

常設になる前も、スペースが使わせてもらえる限り、商品を並べて「いらっしゃいませ~」をやっていた。

震災前のわが店は、開けていればお客さんがたくさん入って来て下さった。私は仕入れもするし、とても一人では回せないので、パートさんを頼んだ。子どものPTAで知り合ったお母さんの内、長くお願いしたのはAさん一人だけ。猫を、溺愛していたのに、ある日、フラッと家を出てしまって、その猫ははねられて。

「しろたんが死んだ、明日お店行って仕事できへん」

泣きながら電話をかけて来て、まともに息もできない様子。翌日は休んでもらうことにして、帰宅後、小さな花束を携えてAさんを訪ねた。夫君はまだ帰宅前、上の娘と幼稚園の頃から同じの息子クンが出て来て、「ウチのお母さん、再起不能ですわ」と言った。その再起不能、という硬い言葉が胸に残った。線香の強い匂いがした。

パンパンに顔の腫れあがった顔のAさんが出て来て、会ってやってくれと言う。段ボールの箱の中に、ふかふかのピンクの真新しいバスタオルを敷いてもらい、横向きに、猫のしろたんは、いた。何度も抱っこさせてもらっていた猫だ。思わず手を触れてしまったら、ペルシャの血の入っているらしいフワフワの毛の底は固く、ものすごく冷たかった。私も猫を飼っている時期だった。畳に手をついて泣いてしまった。しろたんは、半間の床の間の、模造刀の飾られた前方に、安置されていたのだった。食べ物やおもちゃが沢山、周囲に置かれていた。

一週間休んだAさんは(週に二回のパートだったが)、復活すると、何もなかったように仕事に励んでくれた。私より少し年下。高校を卒業して銀行につとめて、初めての見合いで結婚。夫君は転勤族だったし、専業主婦だったAさん、その月の「お給料日」に、こんなことを明かしてくれた。

「主人はケチではないねんけど、ここでパートさせてもらうようになって、自分のお金ができて、しろたんにも時々、気にせんといちばん好きな缶詰買ってあげられるようになってん。しろたん、喜んでたと思います」

そしてまた、少し涙を見せた。Aさんも、最後までいて下さった人。突然閉店することになった時、店ででなく、家まで来て、長い間ありがとう、と、きれいなケーキをくれた。私の姑の書道教室にも通って、こつこつと手をあげておられるようだったAさん。三年ほどで書は止めてしまわれた。年賀状をきちんと書けるようになったし、もういいねん、とのことだった。

一緒に銀行に行って、驚いたことがある。千円札が数枚と、小銭があるとすると。それを預金するとすると。彼女は、手持ちの小銭を足して、もう一枚分の千円に増やして、それから預金するのだ。びっくりした。

私は、千円札と小銭があって、預金するとすると、札だけをしていた。小銭はバラバラっと使ってしまう。はじめ同じ金額を持っていても、そこで、預金額は千円、違ってくるのだ。驚いた。

いい勉強になったと言ったら、面白そうに笑って、(くおん)さんはそれでいいのよ~、と。仕事しやすいもん、と言った。

そうか、それならいいいなとその時は納得したのだった。が。無茶をしてすべてを失くしちまった身内ばかりではない、私自身が、当たり前に長い間、丼勘定で過ごして来たのだ。そうだったのだ。と、気づいた、と言うと嘘になる。わかっていた気はする、目の前で実際に、きちんとした人のやり方を見て、ただ、感嘆したのだった。

でも、自分にとっても甘いわたし。以下のようにも考えた。きちんと、細かくしないと気の済まない自分だったら、あの十数年、正気でいるのはしんどかったかも知れない。失うことが怖かったなら、やってらんなかった、かも。とか。自己弁護。擁護。

円形の脱毛は、何度も出現した。吹く風についおびえるほどデカイおハゲが、何度も幾度もできてしまったりした。
今は直っているから。今ははげていないから、いい。

Aさんは、家が離れてなかなか会えない人だったが、こちらへ来る前にも会った。また会いましょうと言い合った。笑顔の柔らかい綺麗な人で・・太ったなと思うとすぐに「基本のスカート」をはいて節制して、スカートが「おーけー」を出すまで、食を控える大した人である。今日はAさんのことばかりになったけど、パートさんにも恵まれたなあと思う。

えええ、それはないでしょ、なこと、はああ、な人のことも、また、書きたい。


スポンサーサイト



2019.03.05 Comment:5
Secret