おっちゃんの花器
義弟が海外でダンナ買いして膨大に積み上げたガラスのアクセサリー、ガラスのオルゴール。僅かな数ではあるが小さな鳥や動物や、ガラスの枝、ガラスの実のついたツリー。置いておいて古くはならないし腐りもしないけれど、自宅に積んでいてもどうしようもない品々。それに、乞われるままにお金を支払ってしまった。というより、口出しされるのがイヤで、貯金のかなりの金額を渡してしまったのだから、自分の責任。どげんかせんといかん、のでした。
バブルのしっぽの残っていた時代。四十年も前から、そして今も親しい付き合いのある友人のMさんは、奈良から離れた大阪ではあるが、急行の停まる駅から徒歩数分の家に住んでいました。心身に障害のある長男、お兄ちゃん思いの長女、やんちゃなサッカー少年の次男は、その年、中学生になっていました。
家の、幹線道路沿いのスペースに自転車やガラクタ置いてるけど、あそこ何か、店でもやれたらと思うてる、と、以前から言っていました。ピーンと来た。住まいとつながった小さな可愛い店を、作ることになりました。長年の夢だったらしいのでした。「そやけど何を売ったらええのか、わからへんかったんや。」
ガラスのオルゴールや動物や。そんなん、扱いたかってん。見せて話したら彼女は大喜び。私も、自分が抱え込んでいる品を、そこで売ってもらえれば助かる。彼女は苦労人。お金の話は真面目にしました。
店のオープンまでに私には、することがありました。もっと商品を、集めて来ること。
うまく書けない気がしますので細かくは書きません。書くとしたら、以下のようになりますか。
・・かつて大阪には、吹きガラスの職人たちがたくさん、いました。小さな工場が沢山ありました。ガラスを溶かす窯の火は一年中、消えることは無い。火を落とすときは廃業の時。と、私はそれまでに、知っていました。冬でも職人さんたちはシャツ一枚、頭に手拭首にも手拭、全身汗にまみれて、塩分が不足すると目まいを起こして倒れることもあり、いつも容器に山盛りにしてある塩を、なめながら、吹きに吹いていた。
そんな時代がありました、が。ガラスの容器を世の中が必要としなくなって・・プラスティックや紙パックが席巻していって・・工場はどんどん潰れ、職人さんたちは仕事を失い・・・バブルの時代には、テレビのコマーシャルに於いて、吹きガラス作家のどなたかが「マイスター」とか呼ばれておいでだった記憶がありますが。私が押しかけて行ったのは、そんな、マイスターにはなれなかった、過去にはガラスを吹いて吹いて暮らしていた、と。そう、教えてくれたおっちゃんの、住居兼倉庫でした。
そこを知って行ったイキサツは今は省きます(後で書くかどうかはわかりません)。とにかく、売って下さい~って、押しかけて行ったのでした。
二階建てのおっちゃんの倉庫、というか何でも置きの場所は、狭いけどある種の魔窟のようでありました。ものすごい量のガラスの皿や壺や鉢や、そういったものが、ひっそりと或いはたっぷりとホコリをかぶって、誰にも忘れられたように、鎮まっているのでした。タタミ半分の大きさの四方壁無しのエレベーターがあり、ガタガタ揺れるそれに、やはあ、これ面白いですね~とか必死で言いながら乗せてもらって、
「おっちゃん(そう呼べと言われた)、これ、ぜんぶ触っていいんですか」
「ああ、ええのんあったら持ってってや」
「失礼ですけど、わたし、選べません、こんな沢山の吹きガラス見るの初めてですし、目もできてませんし」
「好きなもん持ってたらええねん」
「好きかどうかがわからないので、とりあえず」
直径四十センチはありそうな青い皿に、思わず手が伸びていた。
こんな皿を、型にはめて作るのでなく、吹いて作るなんて並みのことではない。確かな知識は無くても、感覚が私に伝えた・・ここ、キザですか。
・・私は知っていた。直接おっちゃんに聞いたのではない、おっちゃんの奥さんが、私を倉庫にあげる前におっちゃんが消えていた間、お茶を勧めてくれはって、立ったままお茶をいただきながら、聞いたのだ。少しでもエエから買うてくれやったら助かります、と。おっちゃんは、大変、お金に困っているのだそうだった。
「選べへんので、割れてないモン、よおけ、できるだけ、もらいたいんです」
私の、懸命の交渉だったか。おっちゃんはアホらしく、面白かっただろう。
おっちゃん、そいでええで~、と。私はまず、お腹巻き付けポシェットに入れて来たオカネを、おっちゃんに差し出しました。自分なりにいっしょけんめいに貯めたオカネ、義弟に行った分の、残りのお金。
「おっちゃん。私、いま、こんだけしかお金持ってません。ここ見て、もっとお金、作りたくなったけど、そんなようけは作れないと思いますけど、できるだけたくさん、買わせて欲しいんです」
「でけただけでええがな」
おっちゃんは言った。ポケットから紙きれを取り出して、そばにあったギシギシの机の上の、乾いてしまったようなボールペンで、無理やり、金額と日付と〇〇商店、△△と書きつけた。紙に文字を彫りつけたような領収書が出来上がった。
「こういうのんは、でったい取るようにしときや、奥さん」
その日は、段ボール箱に詰めるだけ詰めて車に乗せられるだけ積んで持ち帰った。息子さんが運んでくれた。
車には、夫が待っていた。夫は必ず、待っている人だった。私の商売だから、私だけで動けと言うのだ。
その後、数度、おっちゃんの倉庫に行った。おっちゃんは、割れやカケの無い品を、別にして置いてくれていた。
それを、丁寧にきれいに洗って友人のMさんのオープンした店へ運んだ。観光地でないので、お客さんが何度も見に来られる品があってもいいのではないか、と、思ったのだ。すぐに住宅街の迫った場所だったし。
自分で売りたくて、売れる日が来るまで寝かせておいた品もあった。プロの商売人だったらしないようなことを、していた気がする。おままごとの延長なのね、と言ったお客さんもいた。私は、子どもの学費をなんとか、と、熱かったのだと思う。
・・・はじめ「~ました」で書いていた文章が、なんでやねん(笑)、「だ」とかの文章になっていた、読み返してみると。
もうこのままにしておきます。
おっちゃんは結局、夜逃げしてしまわれました。何やらあったか無かったのか、私には、ぶっきらぼうでしたが、優しいおっちゃんでした。品物には、まこと珍しい、逸品とよぶべきものが沢山あったです。大量生産品でない、本物の吹きガラスの逸品たちでした。
私の手元にも幾つか、残してあります。金赤(本当に金を使って赤の色を出した)の水差し。
大正ガラスを模した、裏赤=花器の口の裏側に赤い色をつけたもの。難しいそうで。表面は、大正ガラスの特徴のうす水色、やさしいブルー。白がほのかに混ざりこんで。何十年眺め続けて飽きない。それだけは、残しました。