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2019-04-24 (Wed) 22:58

雑子・感傷とイラダチのハザマで



イメージ短歌

    ここはどこワタシはだあれウフフのフ私は天下の雑子ヒだわよ

                 ひでぇんかの御尊顔に興を得て  何茶手くおん の詠める

・・・・・・・

       のっぽん国営放送・午後2時のニュース   ピンポンパンパコ~ン 

「天下国家にも国民の幸せにもうっすらとも無関係のニュースを申し上げます。

こーたいしろひザツコさまは本日午前、恒例の、ないしんのうバイコさまの社会見学、庶民生活たんほう、デパ地下ご視察のお付添いの途次に体調の波にお見舞われになられました。国民及び開店を予定以上に遅れさせられていたデパート客への影響を懸念され、密かに現場をご退出、現在は療養状態に入っておられます。

食欲その他血圧等にはお変わりなく、愚内庁も、国民の皆様に置かれましては、過大なご心配またお悲しみに心閉ざされること無く、納税に懸念の及ばぬよう、日々の労働の継続にお励みなさいますよう、声明を発表しています。」

3時にも同じニュースが流され、夕方もう一度流されて、今回のザツコひでぇんかの「突発性爆笑性継続性過呼吸症候群」に関する話題は沙汰やみになった。

何日が経過したのだろう。


ザツコはいま、見たことも無い建物の、2階とおぼしい広い洋風の部屋にいる。

2階であるとわかるのは、遮光を意図してか鎧戸のほぼ閉ざされた大きな窓の、細い隙間から見える景色が、それらしいからだ。

背の高い、きらきらと陽光に照らされて葉裏の光る葉っぱの生い茂った樹が、立っている。2本か、見える限りでは3本、立っている。

その向こうは空だ。春の生まれ初めの、淡い水色の空だ。

景色にも空の色にも興味は無い。世界が美しいなんて感じを抱いたことは無い。けれど、こういう空の色を、じっと眺めていた記憶がある。

あれは、どこの、そしていつのことだったのだろう。育って来る間、数年ごとに住処が変わった。父親は転任の多い人だった。母も必ず付いて、姉妹を連れて、幾つもの国を巡った。祖父母はのっぽん国にいたが、子どもたちが学齢を迎えてもザツコの両親は、娘の教育のために親に子を託して、落ち着いた学校生活を与えようとはしなかった。

皆まとまって移動した、一緒だからと言って、家庭内でもまとまって一緒だったというのでもない。

家事手伝いをする人間が、いる時もいない時もあった。食も衣も、その時々、適当なやり方で始末がつけられて行った。

適当に食べ、適当なものを着せられていた。母はまれに、薄物のワンピースなどを手作りすることもあったが、後に見る、写真の中に残されているそれらは、どれもこれも見事に丈の短い・・・胸のすぐ下のあたりにウエストの切り替えのあるような・・・幼い女の子の白いぱんつが、まるごと見えてしまうような、そんなものばかり。母はズボンの前後ろを逆にはいているなど、誰かに思い切った疑念を向けられても気にしない、そのままで何の痛痒も感じない、おおらかな(自己判断に拠る言葉)人間である。

なぜ、娘たちのワンピースの丈がいつもどれも短かったのか。何年も同じパターンを使っていたから。以上の他に理由は無し。

母国から持って行っていたワフク。写真を撮るとてそれを雑子に着せる際に、それ用の下着も・・肌襦袢も・・長襦袢も無しで。いきなり襟元ぎゅうぎゅうに着せつけて、撮った写真を、婚約の前後にマスゴミに披露して。雑子はずいぶん、ヒソヒソ口を叩かれたらしい。母は平気だった。一枚の浴衣を何年も着せて、最後の年には腕も脚ももろ出しになった写真もあった。母は平気だった。雑子は…平気だったか恥ずかしかったか、もう、忘れた。人は、妬んで羨んで口いっぱいなことを言うものだと。そんな感慨を、知らず身に着けたのかも知れない。

ええと。感慨って何だった?。

・・・そんな、日々の中の、いつか、どこかで、今日の、こんな水色の空を、眺めていたことが、あったのだったか。

雑子にだって、空を眺める少女時代はあったのだ。

金色の髪、水色の虹彩を持つおとこのこ、ミーシャの、目、のような、空だと。感じたことが、あったような、ううむ。男の子は好きだった。でも誰だってそうでしょ、と、思っていた。ピロシキも好きだった。

ドアがノックされる。こんこん、ではない。こんこんここん。。おかしなリズムで、それが毎度、几帳面にノックされる。誰だか何の用だか、応えてやる気になれない。

「ひでぇんかさま、めがさめたか、そうか」

大きな盆を捧げた、なんと言うか、イタリアンの店の調理人のような身なりの男が、鼻の下の髭を横向きににま~っと引き延ばしながら入って来た。笑顔なのだ、それは。

「ひでぇんかさま、お茶をのむよな」

笑い方もモノの言い方にもイライラするが、何か飲みたいから黙っている。手を出すと、冷たく冷やされて汗をかいているグラスを手渡された。

「麦茶だ、ひでんかさま。暑いときにはのっぽん人、これを飲むんだな」

麦茶だって。暑い時は、だって。今はこの国は、まだ、冬だ。春になっているそうなのだが、事実は冬だ。

「お腹空いてるよな~、ひでんかさま」

「・・・」

「いま、お米をにスイハンしているんだからな~。もうすぐ、ご飯は炊かれるだろう」

「あそう」

おとなしく応じてベッドに横たわって男に背を向けたのは、どうやら、この男にしか、現在の自分は会うことができないらしいと、うすうす、わかっている気がするから。

ただただ白いベッドに、シャワールーム。サニタリー部分は別にあって、何も置かれていなくて広い大きな、楕円形の卓。

あるものはそれだけ。携帯電話もパソコンも無い。のっぽんの雑誌が何冊か、これはおそらく、最新号ばかりだろう。自分はそして、置かれてあった新品だったジャージを着て・・色はベビーピンク、気恥ずかしいくらい柔らかい、綺麗な色のジャージ。そういえば娘にも・・・娘のバイコにも、こんな優しい色のベビードレスを選んで、着せてやったことがある。

初めて母親になったころ。ザツコは幸せだった。精いっぱい幸せだったと思う。

あの子は柔らかい子だった。体のどこもが柔らかくて、抱きにくい子だった。脚の関節に何やらモンダイがあって・・・それは雑子にはショックなことだった。どうして自分の子が。と。穏やかな声でそれを告げた医者に、腹が立った。何を言うのだろう、この私に、と。柔らかい上に足を開いていなければならない赤ん坊の、抱き方のレクチュアを受けた。熱心に話を聞いて、養育係の一人が、バイコを抱くベテランになった。

抱きにくい体を、器用にくにゃっと抱いて、目を合わせて笑い合って、バイコの喃語に合わせて、あーだのぶー、だの。いつまでも、楽しそうに、睦んでいた養育係。ザツコの娘を可愛がり、ザツコの娘を愛し、ザツコの娘に愛されなつかれ、後を追って泣かれ、胸の中で、安心して眠らせていた、養育係。

あの頃。バイコが赤ん坊だった頃。膨大な量の写真を撮られた。夫のマルは、なかなか上手にバイコを抱いた。脚の具合がどうだとか、気にしていないようだった。可愛い可愛いと、マルは、バイコに向き合っていた。アナタハイイワヨ。雑子の胸は波立っていたのに。

生まれつきのその立場。揺らぎようの無い立場。なかなか結婚できないでいたその男は、?????いくつかの疑問を、もしかして抱えながら、しかし多分「一生お守りしますよ~」なんてことも、もしかして自分が口走ったのかも知れないと呑み込んで。

雑子にドウキンを拒まれ、昼夜逆転の生活を、内心はどうあれ受け止めて対外的にはにこやかな顔を保ち、雑子に荒い言葉も吐かず、自分はツマに殴られ蹴られても、ツマに対してそういったことの行わない夫であった。

のどを、つる~んと、何の抵抗も無く滑り落ちて行くゼリーみたいな男なのだ。

コカンセツに問題があると医者に指摘されても、あ、そうですか、と、にこやかに受け入れ。不安で何やかにや言い募る雑子に、用があるからいったん失礼します、アトヨロ、と、真剣にとり合ってはくれなかった。

後で見たどんな写真も。すさまじい量のバイコの写真、マルに抱かれている写真、雑子に抱かれている写真。その、おおかたで、バイコは、目の前の親を、見上げてはいない。見てはいない。常に、と言っていい、バイコは、父親でも母親でもない、そばについて来ていて、カメラの届かないところで、バイコに手を振ったり笑いかけたりしている養育係の姿を、追って、見つめていた。

バイコは雑子を見ていなかった。いつだって。いつだって。マルにはわからない、周囲に自分のために存在している人間のいるのが当たり前の環境で育っているマルには、わからない。

マルだってつまりは、あの母親の「慈しみに満ちたお母さま」の表情を、引き立てる役で撮られ続けていた人間なのだし。


・・・最後の日、バイコは、懸命に両手を伸ばして養育係を求めて泣いた。あの女も、バイコの泣き声に身を裂かれるように顔を歪めていた、涙をこぼした、ザツコは、愁嘆場はまっぴらだと思った。イライラした。

さようならと、今日かぎりで職を解かれる養育係の、その部屋からの退出を促した。

あの養育係は、後日、要らないことに、どこかからの質問に答えて、「胸がつぶれそうでございました」などと言っていた。そんなことの書かれた週刊誌の紙面を、雑子は、思い切り破り捨てたかった。後で、そうした。

バイコは、ベビーピンクなどという、淡い優しい色合いの似合わない赤ん坊だった。

ザツコの胸が、一瞬、チクリとする。痛む。

バイコのあの、悲痛な、本能で悟ったか慣れ親しんで愛おしんでくれた人間との別れを悲しがっていつまでも続いた、泣き声。ザツコに向けられたものでなかった、あの声。

自分では無かった、バイコが求めたものは。せっかく生んでやったのに。

生まれてすぐに、実家の両親がひらいた記者会見の事実だって、雑子は知っている。

「お通夜会見」と書かれていたのだ、あのことは。父も母も、男の子でなかった出産を、喜びも祝いもしなかったのだ。おまけにあの日、母は、雑子がそのへんに投げておいたブローチを、襟もとにつけて。目立っていた。ワルクチを書かれた。いや、自分が母に、あげたのだったかいや、・・忘れていたブローチなのに。

母はよく、住まいに来ては、調度品や壁に飾られた絵画や、いろんなものを、フムフムと眺めていた。雑子の子が、男の子だったら、自分も大きな顔してその調度品や絵画のある世界へ入り込めると考えていたのだろう。

雑子もそれには違和感が無かった。

広いのだし。雑子はここへ、乞われて来てやった人間なのだし。

母方の祖父が、雑子たちの住まいへ来て。庭を車椅子で散歩して。喜んでいたことだって。マスゴミに叩かれた。いるべき場所ではないと言われた。何もかも、五月蠅くて神経の荒れることばかり、言われた。

夫が。こうたいしろであって、実際「おえらかった」丸臣が、いいですよ、どーぞどーぞと認めているのだから。」足を悪くしていた晩年の祖父のために(とは公には言われていなかったが)、事実、住まいをバリアフリーにした。マルの反対はあれば可能なことではなかった。つまり、マル自身は受け入れていたのに。いけないわけが無いのに。何をしてもワヤワヤと言われて。

夫の父は、バイコが生まれて後に、

「うちのツマは、丸臣の血筋に、後を継がせたいと考えているようです」

とか口外したそうで。それだけは、いいこと言ったと、雑子は認めてやっている。義父も義母も、少しはわかっているじゃん、と。

バイコ。あの子だってカワイソウだ。

その思いが、ザツコの胸を刺す。

・・・音の無い部屋だ。

床には足音が消えるほど厚い絨毯が敷き詰められている。濃い茶色。オークの色だ。壁も、どうやら、防音が可能なつくりになっている。音も、刺激も吸収する仕組みのようだ・・・よくわからないけれど。

ドアは施錠されている。いつも鍵がかかっている。何度も、右へ左へノブを回そうとしてみた、押そうと試みて全身で当たってみたが、どれだけ厚い材質なのか、ビクともしない。

ドアの向こうは廊下なのか。多分そうだ。廊下の側からしか開けられない、ドア。その内部に自分は、とらわれている。

今は出られない。それは、理解できている。

なぜ。それは解らない。解ろうとすると、考え始めると、頭の中心に楔を打ち込まれていて、それをぐっさぐっさと揺り動かされるみたいな、凶暴な痛みに支配される。

考えなければどうということも無い。食べて、眠って、時には外を・・・水色の空と、陽に煌めき風になびいてさやさやと鳴る、掌の形の葉っぱとを、眺める。

食事は運ばれて来る、味付けの薄い、野菜だの豆腐だの、ササミだの。

塊の肉、大量のチーズに塗れたパスタ、夫が毎夕封を開けて朝には空っぽの瓶になっている大吟醸の酒、そんなものは現れない。

まだ今は、それが無いと生きている感じがしないと狂おしくなるような感覚には襲われない。

まだ今は。

・・・いったい、どれだけの時が流れたのだろうか。

もうぼんやりとして、前世というものがあるなら、もしや前世のことだったかと思われる、遥かに遠いあの日のできごと。

はっきりとは思い出せない・ただ、バイコが、ジャムの瓶をデパートの床に落として。

      唐突ですが、明日に続きます。





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最終更新日 : 2019-04-24

NoTitle * by まめはな
そう、あのとき皇后は確かに仰った。
「皇太子の系譜に皇統を継がせたい」
それが、今、なかった事になっている。
どなたか公に掘り起こしてくださらないものか。
ここにあの方の本音が表れているのだ。

NoTitle * by KUON
・まめはな さん

以下の今上の発言は、未だにあちこちの、いろんなブロガーさんのブログの中に、生きております。

私は以下を、過去のBBさんのお記事から見つけ出してまいりました。

悠仁親王殿下がお生まれになった折に、ミテコおばあさんが、呪いの片方靴を手に現れた、あんな頃のこと。どこからもクレームのつかなかったセリフ、重大な発言と思われますが。今上の発想であるはずもない、と、強く思われますが。


天皇陛下
「美智子も親王 の誕生を大変喜んでおりますが、 美智子はやはり皇太子の系譜に皇統を継がせたいと 申しているんですよ。」

悠仁親王誕生直後の週刊新潮2006/9/28号より

以下、BBさんより。

国民念願の親王誕生を受けて、この冷酷な言い放ち。皇后が言わせたのでしょうよ。
この記事に対し、宮内庁からは何の抗議も訂正要求も出てはいません。



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NoTitle

そう、あのとき皇后は確かに仰った。
「皇太子の系譜に皇統を継がせたい」
それが、今、なかった事になっている。
どなたか公に掘り起こしてくださらないものか。
ここにあの方の本音が表れているのだ。
2019-04-25-15:12 * まめはな [ 返信 * 編集 ]

今も夢見る NoTitle

・まめはな さん

以下の今上の発言は、未だにあちこちの、いろんなブロガーさんのブログの中に、生きております。

私は以下を、過去のBBさんのお記事から見つけ出してまいりました。

悠仁親王殿下がお生まれになった折に、ミテコおばあさんが、呪いの片方靴を手に現れた、あんな頃のこと。どこからもクレームのつかなかったセリフ、重大な発言と思われますが。今上の発想であるはずもない、と、強く思われますが。


天皇陛下
「美智子も親王 の誕生を大変喜んでおりますが、 美智子はやはり皇太子の系譜に皇統を継がせたいと 申しているんですよ。」

悠仁親王誕生直後の週刊新潮2006/9/28号より

以下、BBさんより。

国民念願の親王誕生を受けて、この冷酷な言い放ち。皇后が言わせたのでしょうよ。
この記事に対し、宮内庁からは何の抗議も訂正要求も出てはいません。


2019-04-25-16:42 * KUON [ 返信 * 編集 ]