退位はいつかな待ちぼうけ
(石牟礼道子「苦界浄土」第二部「神々の村」246-247ページ)
胎児性水俣病のお子さんのお母さんのお言葉です。
今年の報にもありました。水俣の方々は、新天皇ご夫妻、ぜひ当地にもお揃いでお出かけいただきたいと、やわらかく望んでおられると。
平成22年に閣議決定されたこと。
療養費
関係県は、一時金等対象者に水俣病被害者手帳を交付します。水俣病被害者手帳の交付を受けた方が、通常起こり得る程度を超えるメチル水銀のばく露を受けたことによって発症すると考えられる症状(以下、「特定症状」といいます。)に関連して、社会保険各法の規定による療養を受けたときは、社会保険の医療費の自己負担分を支給します。
また、関係県は、水俣病被害者手帳の交付を受けた方が特定症状の軽減を図るために、はり師又はきゅう師から、はり又はきゅうの施術を受けたときや、温泉療養を行ったときは、
月7,500円を上限として、要した費用を支給します。
③ 療養手当
関係県は、一時金等対象者が特定症状に関連して社会保険各法の規定による療養を受けたときは、療養手当として次の金額を支給します。
入院による療養を受けた方 1月につき1万7,700円
通院による療養を受けた日数が1日以上の70歳以上の方
1月につき1万5,900円
通院による療養を受けた日数が1日以上の70歳未満の方
1月につき1万2,900円。今から9年前に決定されたことです。ケタの間違いは無し。
新しいテンノーは、語学も堪能で(略)、ほか、言うまでも無く「水」のなんだかエラいお方、のようです。
私はしつこいタチ、同時に,行くとこまで行けば自分から切り離すことも出来るタチでもあって、一個人としてはラク。
大本営発表をつるんと信じて「万歳」できるほど素直な日本人でなくて、ここ数日は「ワタシってもしやヒコクミン?」 の疎外感を実感することもできて、なかなかの連休でした。
以下、もう一度、と思ったことを、部分的に。基本的には石牟礼道子の著作「「苦界浄土】より。
テンノーが口から出す「おことば」。水俣の住人が口から絞り出した声も「ことば」。
:「銭は1銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から順々に、水銀母液ば飲んでもらおう。上から順々に、42人死んでもらう。奥さんがたにも飲んでもらう。胎児性の生まれるように。そのあと順々に69人、水俣病になってもらう。あと100人ぐらい潜在患者になってもらう。それでよか(注)」
:「う、うち、は、く、口が、良う、も、もとら、ん。案じ、加え、て聴いて、はいよ。う、海の上、は、ほ、ほん、に、よかった。」
「嫁に来て三年もたたんうちに、こげん奇病になってしもた。…(ほ、ほん、に、じ、じい、ちゃん、しよの、な、か、おおな、ご、に、なった、な、あ。)うちは、もういっぺん、元の体になろうごたるばい。親さまに、働いて食えといただいた体じゃもね。」
「うちは情けなか。箸も握れん、茶碗もかかえられん、口もがくがく震えのくる。付添いさんが食べさしてくらすが、そりゃ大ごとばい・・・ 」
阿部公彦氏のブログから一部、引用させていただく。
たとえば「舟を焼く仕事」。舟を焼くというのは、漁師が舟の底にくっつく牡蠣殻や、藤壺の虫をとりのけるためにすることである。陸にひきあげた船体を斜めに倒し、舟底に薪をくべ、舟火事にならぬようにこれらを焼き落とす。なかなか面倒な作業である。
その手間をはぶくために、わざわざ百間の港まで、持ち舟を連れて来て、置き放すというのだった。きれいさっぱり、虫や、牡蠣殻が落ちるというのだ。百間の港の「会社」の排水口の水門近くにつなぎ放してさえおけば、いつも舟の底は、軽々となっている、というのであった。
そのうちに漁獲高が目に見えて減ってくる。水に魚が浮くようになる。それから猫がやられた。「猫が舞って死ぬ」との噂が流れる。「舞う」のは、神経の異常のためである。次は人間だった。海沿いの部落で病人が出始め、工場が排水口の向きをかえると、こんどはそちら側で病人が多発する。
はじめて病人が出た頃、この原因不明の奇病は伝染病と誤解されがちであった。当然、余計な恐怖心を持つ者もいた。
この頃、看護婦さんが、手が先生しびれます、といいだした。看護部さんたちが大勢で来て、先生うつりませんかという。よく消毒して、隔離病院にうつすようにするというと、うつらない証明をしてくれという。このとき手がしびれるといった湯堂部落出[水俣病の多発地帯のひとつ]の看護婦さんは、あとになって胎児性[水俣病]の子どもを産むことになった。まさかそこまではそのとき思いおよばなかった。
水俣病は伝染病ではない。しかし、この病気の出発点は、まさに「手が先生しびれます」という感覚なのだ。現在絶版だが、吉田司『下下戦記』(白水社)には次のような一節がある。
ところが今度ぁ、あたしが身体中痺れっきたったい。手とか指とか、足ン痺れひどうなって、なんじゃ手袋はめて物ば触っとる気色で、富子と清治に飯食する匙ばポロポロ落とすわけたい。茶碗まで落として割ってしまうわけたい。『あれーッ、こりゃいかん。まさか富子ン病気が伝染ったわけじゃなかろうねえ』もう居ても立っても居られんわけ。夜中他ン患者が寝てしもうてから、こっそり病院の炊事場さ行ったったい。なんとかこン痺れ取ってやれッち思て、指先ばゴシゴシ軽石でこすってみた。ゴシゴシゴシゴシ、取れんとたい、痺れが。今度ぁコンクリートの壁にこすりつけて、ゴシゴシゴシゴシ。
水俣病は何よりも「わからない病気」だった。何であれ、わからないということ自体、人間にとっては不気味なのである。コンクリートに指をこすりつけてでも取り去りたい、得体の知れない痺れは、原初的な恐怖を呼び起こした。
著者石牟礼はとにかく水俣病のすべてを見ようとしてきた。東京から視察に訪れたチッソ社長の車をタクシーで追うこともあれば、大学病院に頼んで患者の解剖に立ち会うこともあった。この本の力づくの文体には、力づくの視線が感じられる。
彼女のすんなりとしている両肢は少しひらきぎみに、その番い目ははらりと白いガーゼでおおわれているのである。にぎるともなく指をかろく握って、彼女は底しれぬ放意を、その執刀医たちにゆだねていた。内臓をとりだしてゆく腹腔の洞にいつの間にか沁み出すようにひっそりと血がたまり、白い上衣を着た執刀医のひとりはときどきそれを、とっ手のついた小さな白いコップでしずかにすくい出すのだった。
わたしKUONは、今までに数度、この本について書いた。知って欲しいことがあります、と、叫び出すみたいに、書いた。
発症前、元気だった娘を思い、
:「木にも草にも、魂はあるとうちは思うとに。魚にもめずにも魂はあると思うとに。うちげのゆりにはそれがなかとはどういうことな」
山本富士夫・十三歳、胎児性水俣病。生まれてこの方、一語も発せず、一語もききわけぬ十三歳なのだ。両方の手の親指を同時に口に含み、絶えまなくおしゃぶりし、のこりの指と掌を、ひらひら、ひらひら、魚のひれのように動かすだけが、この少年の、すべての生存表現である。
中村千鶴・十三歳、胎児性水俣病。炎のような怜悧さに生まれつきながら、水俣病によって、人間の属性を、言葉を発する機能も身動きする機能も、全部溶かし去られ(略)。
〇チッソの補償(見舞金)を受けると、生活保護が受けられなくなった。
:「水俣病がそのようにまで羨ましかかいなぁあんたたちは。今すぐ替わってよ。すぐなるるばい、会社の廃液で。百トンあるちゅうよ、茶ワンで呑みやんすぐならるるよ。汲んできてやろか、会社から。替わってよ、すぐ。うちはそげんいうぞ。なれなれみんな、水俣病に」
:「あんたも水俣病を病んどるかな? どのくらい病んどるな? こげんきつか病気はなかばい。まぁだ他に、世界でいちばん重か病気の他にあると思うかな。その病(びょう)、病(や)んでおらぬなら、水俣病ばいうまいぞ」
:わたしゃ、恥も業もいっちょもなかぞ。よかですか、川村さん。
おらぁな、会社ゆきとは違うとぞ。自分家(げ)で使うとる会社ゆきと同じような人間が、もの言いよると思うなぞ。
千円で働けといえば千円で、二千円で働けといえば二千円で働く人間とはわけがちがうぞ。人に使われとる人間とちがうとぞ、漁師は。
:おる家(げ)の海、おる家の田畠に水銀たれ流しておいて、誠意をつくしますちゅう言葉だけで足ると思うか。言葉だけで。いうな! 言葉だけば!
:「病んでみろ、病みきれんぞこの病(びょう)は。一生かかっても、二生かかっても」
:川本 よし、わかった。そんなら……
あば、もう、あなたは会社の社長ばやめて、十日、いや一週間なり、一ヶ月なり、その、患者の苦しみば、いっしょに味おうてもろうて、ああた方ぜんぶ、患者の家に一ヶ月なり来てもらいまっしょ
:川本 社長……わからんじゃろう、……俺が鬼か……なんいいよるかわかるか、……親父は母屋にひとり寝えとった……おら、小屋から行って、朝昼晩、めしゃあ食(か)せた。買うて食う米もなかった。なんもかんも持っとるもんな、背広でもなんでも、ぜんぶ、質に入れた。そげな暮しが、わかるか、明日食う米もなかこつも、何べんもあった。着て寝る蒲団もなかったよ。敷布団もなく寒さに凍えて泣いとったぞ、そんな暮しがわかるか。
親父の舟も売ってしもうたぞ、
うちん親父は、六十九で死んだ。六十九で……。精神病院の保護室で死んだぞ保護室で。水俣病で……。格子戸の、牢屋んごたる部屋で、死んだぞ。精神病院ば……見たこつがあるか、行ったことがあるかおまや。保護室の格子戸のごたるところで、……おまやしあわせぞ……誰もみとらんところで、ひとりで死んだぞ、おやじは。こげんこたぁおら、今まで……誰にもいまんじゃったぞ。
そげんした苦しみがわかるか……。
*水俣病患者 資料映像≪Minamata disease≫ (poisoning caused by industrial mercury pollution)
*MINAMATA: The Victims and Their World
*Tsuchimoto - Minamata Disease 3
上記YOUTUBE、なかなか探しにくい状況のようですが。。今では。
当時も。
近いあたりに住んでいる人々が、チッソに勤めてチッソから収入を得ている人々と、チッソを「敵」と戦う人々と、分かれて。
そういう問題は、現在も、福島の原発事故の後のことを多少、見知っても、軽々にものの言えないことであると、感じてしまう、わたしKUONは意気地なしの、どっちつかずのコウモリ人間だと、常に、そんな気はある。
でも。何度も書いてしまうのは。
チッソの社長であった江頭豊が、皇太子妃・雅子妃殿下の母方の祖父であること。(このたびコウゴウとなられた)。
会社の社長であれば、会社の利益のために、が、最優先の思考になることは、責められないことなのかもしれないが…少なくとも、その程度の前提を置いて語りたいが・・・
江頭豊は、やくざを使ってデモ隊を鎮圧させようとした、多くのけが人を生んだ、水俣についてカメラを武器に、この企業犯罪を世界に発信しようとした(今はあえて、このように言い切ることにする)写真家の、ユージン・スミス氏をも襲わせて大けがをさせ、片目を失明させ、いずれの早死にを呼び寄せた、などということもした。
それ以前に、患者たちに対して、
「貧乏人が腐った魚を食べて病気になった」(それをチッソのせいにする)
「金はやるから文句を言うな」
と暴言を吐いている。
大阪の厚生年金会館で開催されたチッソの株主総会、一株株主になった患者たちの訴えの声が大きく大荒れになったその場では、両手に位牌を握りしめた患が、江頭に詰め寄った、叫び声が轟いた。
江頭個人の罪、ではないのかも知れない。
しかし。
江頭豊は、結局、チッソと言う会社の、終生の名誉会長の座にあった。
余生をどう過ごしたか。
一人娘である「優美子」の夫となった小和田恒とは、仲のいい・・話の合う関係を保ち、後ろ盾の無かった娘婿を擁して、ある時期に大きな家を建てて同じ敷地内に暮らした。
初孫である雅子に入内の話が出て、昭和天皇は、その縁談に反対された。
世界最大ともいわれる公害病の原因会社、世界に知られた企業犯罪の責任者であった男の孫娘と皇孫の結婚は、国民の総意にそむくであろうと。当時の後藤田長官は、この話が成れば、皇居の前にむしろ旗が林立すると発言した。
しかし、昭和帝の崩御の後に、皇太子の強い希望(という物語が、長い間、信じられてきた)によって、まずアメリカのメディアがすっぱ抜くと言うやり方でもって、皇太子妃は小和田雅子、と、決定した(ことになってしまった)。
雅子嬢は、お妃教育を半ばで放棄した。ブライダルチェックを拒否した。家系調査には妨害が入って実行されなかった、嬢の結婚前の芳しくない写真は秘匿された、付き合いのあった男性の、二人までが不審の死を遂げている。それでもとにかく、強引に皇太子は遅めの結婚を果たした。
結婚の儀にも披露の宴にも、江頭豊と妻は出席している。
晩年を迎えた江頭は、おとなしい孫娘の夫(皇太子)に迎えられ、たびたび御所を訪問し、そればかりでなく、莫大な費用を投じて御所はバリアフリー化され、車いす用のスロープも設けられた。
江頭豊は、御所の庭を眺めるのが何よりの楽しみであると言い言いし、死んだときには皇太子は、通夜にも葬儀にも出ている。そういったことは、それまで無い、異例のことだった。似た時期に雅子妃は、皇太子の祖母君である香淳皇后の葬儀に「夏バテのようなもの」を理由に出ていない。
その、水俣病を生んだ地へ、海へ、過去、当時の天皇皇后両陛下は行啓された。
秋篠宮殿下同妃殿下は、そのもっと前に訪れられて、殿下は、首を折るごとき悲しみの姿勢で、今は亡き方々を悼まれた。
当時の皇太子夫婦は行っていない。
結婚の後、早い時期に、水俣の方々の声として、以下の思いが流れた。
「おふたりで、おいでになっていただければ、ありがたいことです」
あの夫婦は、そんな声、きっと、聞こえもしないだろう。
ナルチャンは水の総裁。なるほど。
妃殿下は、他人が自分の祖父についてイヤな風に言うことを、快く思わない。おじい様を悪く言われた、と、口を歪めるのだそうだ。口は歪み続けているが。
婚約発表の折の動画でも。皇太子が、婚約までの時間がかかったことにからめて、ミナマタの文字を口から出した、皇太子は少なくとも嘘のつけない人物ではあるようだ、隣席の女性をはばかる感じで・・・逃げられたくない、或いは、すでに「コワい」人になっていた・・・言葉を発した瞬間の、雅子サンの表情は、なかなかに微妙なものだった。
止まらない汽車が出発してしまっていたのか。
水俣病。
チッソの会社が海へ垂れ流した有機水銀の毒によって発症する病気。神経がやられてしまう。
ひどい症状の現れるその病気では、指が、あり得ない方向に曲がってしまうという形が多く見られる。
後天性のものでも、先天性のそれでも。指の拘縮は見られる。
食べるために、動けない子を荒ムシロの上へ転がしておいて、親たちはしごとに出る。その親たちを、日がな一日、待つしか無かった胎児性の水俣病の子どもたちの、指は、ぐにゃぐにゃに曲がっていた。伸びなかった。
足も。知能も遅れた、学校へ行くどころか、挨拶もできなかった。
ありがとう、とも、言えなかった。
楽しみです、と笑えるようなことも、おそらく、無かっただろう。
伝染病ではない。
生まれたときから
気ちがいでございました
(第二部「神々の村」246-247ページ)
◇ 参考までに。
元皇太子は結婚後、数十億円かけた東宮御所に住み、その後、雅子さん祖父の元チッソ社長のためにスロープをつけた。
・ 1997年 東宮御所改修工事 5億8000万円 /バリアフリー化、公室棟改修(耐震補強工事・車椅子用リフト設置等))
・3000万円近くかけて子供部屋関係改修(紀宮さま御使用だった部屋の床を耐熱性のあるコルクタイルに、壁にはリノリウム使用、壁と床はクリーム色に塗られた。
・部屋を仕切って看護婦控えを設ける。
最終的には、たび重なる改修費用に 23億円 の拠出。
2001年には小和田氏は、軽井沢に別荘を購入している。
愛子さんが生まれた年にあたる。