八月も、レッツ・短歌にございます。
今月も「うた詠みませう、もろともに」「うた読みませう、もろびとの」
の、月半ばとあいなりましてございます。ワタクシが勝手にかく唱えるのにてはございますが(笑)
日本列島ことごとく「お盆」の一語にて語られる時候、皆さまのご日常にも常ならぬ変化のございましょう、故によりてこの月は、今日この時より16日まで、を区切りとてしてお呼びかけせんものと、思い至りましてございます。
ごてごて言うておりますが、内容は常の月と同じ、基本は五七五七七の定型による和歌、短歌。いささかの字余り、字足らずはそれはそれ。恥ずかしきことの、何ぞございましょうぞ。はんどる・ねーむなる便利なるもの、ございます、やんか。
詠んでみませう、レッツ・短歌。人もすなることを、われもしてみんとて、の面白がりよりはじめられるもよし。
「長屋の爺」さまの八月五日の御記事を。お借りしてまいりました。
全文お借りしましたが、このすぐ下の文字色異なるあたりの記述に、いわゆる「目うろこ」。でっかいのが、ころりんと落ちまして。
されど深うして得心の行きましたのも、同時。まずは記事中の一部より。
「ヤマトの天皇(すめらみこと)の一番の仕事は祭祀ではありません
祭祀は女性(たとえば巫女)の領域です
※日本書紀の中の神功皇后の記述に顕著に現れています
では天皇の仕事は何でしょうか?
それこそが【歌を詠むこと】だったのではないでしょうか
言挙げすることこそ【統治者の使命】だったと私は考えます
その傾向は平安期における天皇が仏教徒(仏の僕)になって
祭祀ではなく、和歌を詠むことが日常だったことからも窺えます
あくまでもこれは、長屋の爺なる個人のお考え、否、のご心象をお覚えの方もございましょう。ございますならば、お読み捨てを、と、お進め申し上げます。わたくしKUONが、自らのブログにお招きしとうてお借りしてまいりました御記事。
あんだーらいん部分が特に、自分なりの長年の(というほどではございませんが・おほほ)の疑問、?????に対する「お答え」とあいなりましたことを、申し上げて、前文の区切りとさせていただきませう。
おうた、お待ち申し上げます。
コメント欄へお寄せ下さい、裏コメントにては受け付けませぬ。
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言霊と和歌 「月明かりの下で神よ眠れ」 長屋の爺さまブログより。
和歌
和歌というのは日本固有の文化です
三十一文字の中に人生の事象を読み込む形
いや 壮大な宇宙すら描いて行く言葉の世界観に
魅了される人も多いのです
では、この和歌はどうして花開き完成されてきたのでしょうか
これから先は私の想像で何の根拠もありませんので、批判は
御免蒙ります ※念のため (笑)
歌(和歌)の始まりは「呪」「願い」「暗号」として、一部の人間の
間に浸透していったと私は考えています
和歌を詠むことは『言挙げ』する事になります
古代日本では無駄な会話は少なく、神に対する言挙げが主体
だったと想像しています
別に日常会話が無かったとは言いませんが
日常的な会話も生きるための道具であり、又それ以上に
言挙げは重要性が高かったという意味です・・・
一つの例として
書き残す、言い伝えるという行為は重要性が高かったから
起きたものだと私は思っています
つまり、取るに足らない物事 出来事など、書いたり伝えたりする
以前に記憶にすら残らないのではないでしょうか
また、誰もが「当たり前」「常識的」なことは口にさえしなかった
とさえ考えています
そうであるならば、書き留める意義すら存在しません
会話のなかで、誰だって「風呂に入った」事を話すときに
「シャツを脱いで、靴下やトランクスを脱いでから浴室の
ドアを開けて入ったんだ」
そんな当たり前の事を口にする人はいません(笑)
躓くのは足下であって目線の上でない事は
あまりにも当たり前すぎて、説明するまでもありませんよね
もうひとつ忘れてはいけないこと
言葉を知らない人間には「歌」を詠むことは出来ないという事です
教養がなければ詠めないのが古代の「歌」であり
現代日本と異なり全ての人間に対し、情報や修学の機会が
有った可能性は極めて小さく
現代以上に歌=知性=チカラだったはずです
優れた歌を詠む能力は即ち選ばれた者だけがもつ『チカラ』
一部の人間の間にだけ、成しうるのが「詠む」事だった気がします
和歌の始まりが「呪」だったものが、儚い願いにも使われ
特定の人にだけわかる「通信手段」になって
他人には知られたくない通信(暗号文)に変化していった可能性
を感じています
歴史上の知識人たちが解釈し伝えてきたものが、正解である
とは思えないものだってあります
例えば、平安期以前の歌には解釈できないものもあります
古代朝鮮語で書かれているという説まであり
当然ながらルール本など存在しないうえに、詠み手の心情まで推量する
解釈には異論があっても不思議ではありません
ヤマトの天皇(すめらみこと)の一番の仕事は祭祀ではありません
祭祀は女性(たとえば巫女)の領域です
※日本書紀の中の神功皇后の記述に顕著に現れています
では天皇の仕事は何でしょうか?
それこそが【歌を詠むこと】だったのではないでしょうか
事挙げすることこそ【統治者の使命】だったと私は考えます
その傾向は平安期における天皇が仏教徒(仏の僕)になって
祭祀ではなく、和歌を詠むことが日常だったことからも窺えます
上手な歌を詠めることが知性と教養のバロメーターだった
その代表が天皇を頂点とした公家と呼ばれる貴族たちでした
詠んだ歌をどう評価するかの基準は私には理解できませんが
現代感覚では推し量れない「何か」があったのかもしれません。