広島の小母さん
常は養父の家に暮らして学校へ通っていた私、夏や冬の休暇には、名古屋の母の家へ戻っていた。そこを起点に、母の里や父方の叔母の家の世話になっていた。広島からおばさんの来られたのは、中学生の時だった。
母の父方のいとこで、子どもの頃から仲が良かった、とは母の言。幾つか年が上で、母より早く結婚して広島の町なかの写真館の奥さんだった小母さんは、ゆったりとした態度の口数の少ない人で、私を「変わった子だ」と見ている気配はなく、なんとなく好きな小母さんだった。
当時とても話題になっていたウィーン少年合唱団の映画「青きドナウ」を観に、連れて行ってくれた。このことは、以前にも書いたことがある。
映画は素敵で、帰りに松坂屋デパートの大食堂で食べさせてもらったオムライスの美味しかったこと、忘れていない。
本ばっかり読んでいる子、であった私と,小母さんは、とりとめのない話をしながら、夜を更かしてくれた。大人には決まっているのだが、とてもオトナのひと、悠々としてどうでもいいことに驚いたり説教に走ったりしないその人が、私は、どんどん好きになっていたのだと思う。
母もきっと、小母さんに憧れている面があったのだろう、戦争中も、リュックに詰められるだけ野菜やお米を詰め込んで、広島まで運んでいたと嬉しそうに話していた。母のところへは、母の里の伯父さんが自転車で持ってきてくえていたのだそうだ。岐阜から名古屋まで。。
明日は小母さんが還るという夜のことだった。何の都合か家風呂をたてられず、小母さんと私と二人、近くの銭湯へ行った。
そこで私は、経験したことの無い他人のまなざしの凄さを知ったのだった。
体を洗って小母さんと私は、大きな浴槽に沈んで、うっとりしていた。女の人が入って来て、あれ、みたいな大声を出した。数秒無言、すぐに、ばしゃばしゃとお湯を蹴立てて出て行った。「あんな」と、はばかりの無い声が響いた。
やけど、うつる、考えないと。そんな言葉だったと、うっすらと記憶する。火のような視線だった。
小母さんは何も言わなかった。静かにお湯を掻きよせて、自分の腕から胸へかけて一面の皮膚の引き攣れにかけてやっていた。
何も言わず出て、私を呼んで、うつむきがちに脱衣場へ足を進めた。
「ケロイドはうつったりしないよ」
見つめている私に、にっと笑った。みな、知らないんだから仕方ない。そう言った。
憧れの銭湯のフルーツ牛乳を、その日私は初めて、経験した。
夜の道を、小母さんと二人、黙ってゆっくりと歩いた。母にはそのことを言わなかった。
昭和20年8月6日。アメリカは広島市に原子爆弾を落とした。小母さんはその爆弾でケロイドを負った。ピアノが弾けなくなったらしいが、あの頃、小母さんのそんな悲しみは、取るに足りない些細なことであったのだろう。
タイミングを合わせたようにその日、ジャガイモを背負って行ってその町にいた母は、ほうほうの態で逃げ帰り、何が起きたかを二人の娘にいっさい言えないで、ずっと寝付いて、翌年に生まれた三人目の長男を、生後三日目に亡くした。
お臍から血が出続けて、真っ白で、お乳も飲めずに死んでしまった。小さい細い指が、六本あった。母が私に教えてくれた「兄」は、そんな赤ん坊だったらしい。ゆきおちゃん、と、父と母は名付けたらしい。私が知っているのはそれだけ。一枚あった写真では、巨大な白百合の隙間に、小さな顔がのぞいていた。
私は元気で大きく育ち、若い時よりだんだん強くなって行く気持ちの底で、この時期には、広島の小母さんや母のことを、思い出す。
一人で思い出す。