サマータイム
2019年08月20日 公開
目覚めたら雨でした。
狂暴な雨でなく、落ち着いたしっとりした雨。朝方にエアコンのスイッチも消していたのでしたっけ。
「サマータイム」が聴きたい。胸に滲みいって来てくれそうです。ぢいさんには申し訳ないけど、こんな朝の一人は、いいなあ。
朝刊に、昭和天皇の記事がたくさん。初代の宮内庁長官でいらした(という)田島道治氏の「拝謁記」なる資料についてなど、大きく紙面を割いて報じられている。まだ詳しくは読んでいません。
パソコンあければ、ナル氏を「さすが」と、風船ついて飛ばしているようなアホたれ記事。
ワタシはきっと、気難しい。気難しいばあちゃんへの道を、ブレず歩んでいる。自覚はあるつもり、でも、今の日本人・・・大雑把な言い方です・・・の、軽いこと軽いこと。
雰囲気だけ、KYになりたくないだけ、いつでも笑っているのはまあ、として、どうでもいいところで、とにかくひたすら口角上げて声出して笑っていらっしゃる、見る限り皆さん、きれいなナリで。曇りの無い眉間で。
とか。心、ざわつきます、サマータイム聴こう、聴きたい。
今日、もうすぐ出かけて夕方に帰宅すれば、この夏のハードな部分はクリアとなる予定です。
少し静かに、私の場所で過ごせる予定です。
支度して、青汁飲んで出かけます。

Ella Fitzgerald Louis Armstrong - Summertime
七年前に亡くなった養父の「追悼集」が出て来た。私家版、ハードカバー、460ページの本である。重い。
私はその人に名前をつけてもらい、中学入学の時に引き取ってもらい、高校進学に際しては、学寮のある学校へ行きたいと我意を通し、そこでは小説などを書き出して問題とされ(養父が校長である学校だったのに)卒業してすぐに単身、家出を決行。数年後に白旗掲げて戻った、就職先も見つけてもらった、結婚する時には、養父の家の門から出してもらった。
勝手に出て行った家に戻った日、茶の間にいる養父に、膝を折って「ただいま」と挨拶した。長い間、ご心配ご迷惑おかけしました、と手を突いた頭の上に、
「お、帰ったんやな」
と明るい声が降って来た。顔を上げると、にこにこと明るい笑顔がそこにあった。子どもの頃から厳しいひとで、威圧的で有無を言わせぬひとで、とても怖くて苦手な人だった。
私は養父を、キライなのだと思い込んでいた。養父は、私みたいなコを、キライなのだと思い込んでいた。
私が中学生だった頃、養父はとても、すさまじく忙しかったのだ。家の中に飛び込むように帰って来る。養父の妻(養母と呼ぼう)を怒鳴りつけながらばざばざとものを食べ、着替えをして、再び風のように走り出て行く。養父の不在は私には「いい時」で、不在が長いなと感じる時は、アメリカやアフリカやいろんな国へ行っている、ということが多かったようだ。
その高校の校長になって、まずはラグビー部を強くする、ということが、目標の一つになったとか。他のことは今はおいて、ラグビーのことだけ、書きます。
何十年も前の、私立の学校の話。昭和三十年代終わりの時点ではすでに、グラウンドもできていて、環境は整っていたとのこと。
養父はグラウンドに内線電話を引いて「臨時校長室」になっていた。他にもいろんな仕事があり、多忙だったのでそうしていたらしい。
「練習には口出しせず、ただ見守るという姿だった」「らしい。昭和四十二年には、芝生のグラウンドにした、と。
全国高校大会が西宮球技場から、花園ラグビー場に移った最初の年にも、優勝に輝いたと。
私や養父の家族が全く知らずに暮らしていたことが、養父の外の世界では展開していたのだった、ということだ。詳しいことは今回、本を読み返して初めて知った。
狂暴な雨でなく、落ち着いたしっとりした雨。朝方にエアコンのスイッチも消していたのでしたっけ。
「サマータイム」が聴きたい。胸に滲みいって来てくれそうです。ぢいさんには申し訳ないけど、こんな朝の一人は、いいなあ。
朝刊に、昭和天皇の記事がたくさん。初代の宮内庁長官でいらした(という)田島道治氏の「拝謁記」なる資料についてなど、大きく紙面を割いて報じられている。まだ詳しくは読んでいません。
パソコンあければ、ナル氏を「さすが」と、風船ついて飛ばしているようなアホたれ記事。
ワタシはきっと、気難しい。気難しいばあちゃんへの道を、ブレず歩んでいる。自覚はあるつもり、でも、今の日本人・・・大雑把な言い方です・・・の、軽いこと軽いこと。
雰囲気だけ、KYになりたくないだけ、いつでも笑っているのはまあ、として、どうでもいいところで、とにかくひたすら口角上げて声出して笑っていらっしゃる、見る限り皆さん、きれいなナリで。曇りの無い眉間で。
とか。心、ざわつきます、サマータイム聴こう、聴きたい。
今日、もうすぐ出かけて夕方に帰宅すれば、この夏のハードな部分はクリアとなる予定です。
少し静かに、私の場所で過ごせる予定です。
支度して、青汁飲んで出かけます。

Ella Fitzgerald Louis Armstrong - Summertime
七年前に亡くなった養父の「追悼集」が出て来た。私家版、ハードカバー、460ページの本である。重い。
私はその人に名前をつけてもらい、中学入学の時に引き取ってもらい、高校進学に際しては、学寮のある学校へ行きたいと我意を通し、そこでは小説などを書き出して問題とされ(養父が校長である学校だったのに)卒業してすぐに単身、家出を決行。数年後に白旗掲げて戻った、就職先も見つけてもらった、結婚する時には、養父の家の門から出してもらった。
勝手に出て行った家に戻った日、茶の間にいる養父に、膝を折って「ただいま」と挨拶した。長い間、ご心配ご迷惑おかけしました、と手を突いた頭の上に、
「お、帰ったんやな」
と明るい声が降って来た。顔を上げると、にこにこと明るい笑顔がそこにあった。子どもの頃から厳しいひとで、威圧的で有無を言わせぬひとで、とても怖くて苦手な人だった。
私は養父を、キライなのだと思い込んでいた。養父は、私みたいなコを、キライなのだと思い込んでいた。
私が中学生だった頃、養父はとても、すさまじく忙しかったのだ。家の中に飛び込むように帰って来る。養父の妻(養母と呼ぼう)を怒鳴りつけながらばざばざとものを食べ、着替えをして、再び風のように走り出て行く。養父の不在は私には「いい時」で、不在が長いなと感じる時は、アメリカやアフリカやいろんな国へ行っている、ということが多かったようだ。
その高校の校長になって、まずはラグビー部を強くする、ということが、目標の一つになったとか。他のことは今はおいて、ラグビーのことだけ、書きます。
何十年も前の、私立の学校の話。昭和三十年代終わりの時点ではすでに、グラウンドもできていて、環境は整っていたとのこと。
養父はグラウンドに内線電話を引いて「臨時校長室」になっていた。他にもいろんな仕事があり、多忙だったのでそうしていたらしい。
「練習には口出しせず、ただ見守るという姿だった」「らしい。昭和四十二年には、芝生のグラウンドにした、と。
全国高校大会が西宮球技場から、花園ラグビー場に移った最初の年にも、優勝に輝いたと。
私や養父の家族が全く知らずに暮らしていたことが、養父の外の世界では展開していたのだった、ということだ。詳しいことは今回、本を読み返して初めて知った。
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