殴り書き・太宰治
紀宮さま(現在の黒田清子さん)が、内親王でいらした頃。上質なのが写真でも見てとれる美しい振袖姿で、髪は漆黒、乱れの無いボブスタイルで、同氏とソファに掛けて話しておられる画像を見た。紀宮さまは、本当に内親王らしい内親王、と感じられる方だった。シラクさんは、そんな日本のおひめさまを、不躾でない、素直な親愛と感嘆のこもったまなざしで、静かに眺めておられたのだった。
忘れがたい一葉の写真。
jフランスの大統領はエレガントで、日本の内親王は皇族らしかった。
らしいって大切な事と、今になって思う、とは、もう言いません。
・・・今回知ったこと。数年前に愛していた娘さんが亡くなり、氏はそれ以後がっくりと力を落としていた、と。この頃は、しきりに、老いるという当たり前のことが、今まで感じたことの無いしんみりさを伴って、思われます。
いや、私は元気で、やる気もまだまだございますのですが・・・仕事もまだまだ続けたいし続けるし。秋はやっぱり、ボードレールとかヴェルレーヌとか中原中也とか・・・とか言っても、ほぼ、過去に知り得た詩人たちばかり。新たに読んだ詩人、とか、列記できないのが実情です。
太宰治と三人の女性たち云々の映画が上映中とのこと。目に触れた評の一部に、女性たちはそれぞれ、自分の欲しかった太宰を、ちゃあんと手に入れたとありました。なるほど、とうなずきました。そうだったんだろうな。行き着くところは。
沢尻エリカが「斜陽の女性(ひと)」というのが、今の時点では私にはよくわかっていないです。その女性とは太宰は、小説にするネタが欲しくて、たまたま一夜のそういうことも(ついでのように)あって、結果、身ごもった彼女は、あの時代に、何より文才に憧れて会った男の子どもを、産む。太宰はああいう男だから、生まれたと聞けば、「この子は私のかわいい子で」みたいなことも平チャラで書いて「治」の文字を、その子に与えて。治子と名付けられた子どもは、不思議な世界を持つ作家となって、私はその太田治子の本を、かなり読みました。ホント不思議な感じのひと。言ってしまえば、友達にはなれないなりにくい、みたいな・・あああどんどん暴走しています。
名家の娘が妻子ある作家との間に子を産んだ。随分苦労して、「斜陽のひと」は、子を育てた。そういった面を、沢尻エリカはどんな風に描かれているのかな、と。まあ、思うには思います。
心中相手の山崎富栄を、好きな女優の二階堂ふみが演じているらしい。彼女も、いいお家の娘で、美容関係で優れた技術を持ち、当時の女性は持ち得なかった、自由に使えるお金を持ったひとだった。結婚した相手を戦争で亡くしたひと。このひと関連の本も数冊読みました。もうどうにも「修ちゃん」が好きで好きで。治子が生まれて名前をつけてやったことが、悲しくて苦しくて切なくて。太宰氏には自宅に、何人もの子どもがいたのですが、斜陽のひとの生んだ子どもは、また特別だった。太宰は「まだあなたには「修」の字が残っているじゃないか」とか、調子のいいことを言っているんです、ジリジリしたと思います。でも自分からは切れないんだからね。自分だけが彼を解ってあげられる、のタイプのひとで。
太宰治は、自分の家ではけっこういい夫であり、子どもにも、いいお父ちゃんだった。そうしたいからそうしていた。その自分に、誰にせよなんだかんだと強迫的に行って来られる時は、ただ、その場から逃げたかっただけだったと思う。オレかわいそ、の人だったと思う。
富栄以前にも太宰さんは、一度ならぬ自殺未遂、心中未遂をやらかしていて、一度は、女だけが死んでいる。
最後、一緒に死ぬことになった女は、離してくれなかった。あたしたち一緒に死ねるのよね、と、彼女はひたすら喜んだ。振り切ることが出来ないで、ずるずると男は、雨の玉川上水まで歩いて行った。死ぬ気は、本当だっただろうし、な~んか、なあ、みたいものだったと、私は考えています。とにかく、心中は成ったのです。行方知れず、そして発見。すでに有名な作家であった太宰の死。ある意味、周囲には湧きたつものがあったことでしょう。
二人で死んだのに、発見されてからの太宰は、多くの手に囲まれた。悼まれた、運ばれた。富栄さんはどうなっていたかと言えば、川への斜面に引き上げられて、私の見た写真では、一人で,むしろのようなものを被せられて、土手に放置されていた。
無残だな、と震えました。梅雨時だったから、よけいに。
真面目であり名士だった彼女の父親は、娘の死について、記憶に依れば
「娘は〇〇の道で頑張っていたが、作家の太宰某と心中をして、家名を大いに傷つけた」と書いておられたのでした。
どう思われようと迷惑かけたとそしられようと富栄さんは、思いつめて独占したかった「修ちゃん」を、自分のものにできて、幸せだったと、確信をこめて私は受け止めています。
「斜陽のひと」と呼ばれた太田静子は、年を経るにつれて、雪の中を歩きながら、幼い娘と都落ちの夜に「太宰ちゃま~」と呼びながら生きた、そんな感覚は薄れたようで。毀誉褒貶いろいろですが、娘さんが、母の人生を書き残してくれている。物書きになりたかった人なのでした、太田静子は。
いわゆる本妻さんは、賢い女性だったよう。太宰とも仲はよかった。このひとも太宰、夫について書き残していますが、自分と夫と子どもたちのこと以外には、触れていない。文章も端然として。体の弱かったつ男児一人を亡くしておられますが、娘さんは津島祐子、立派な作家になっておられます。夫のかわいらしい面なども書いているのです。夫人は。
本妻としての生を,まっとうされた方のように思います。意地があったのは当然でしょう。愛でもあったと思います。
勝手な殴り書きのような記事になりました。映画の感想ではありません。