愚痴、の気がします。
長年の習慣で、今も月に一度は奈良の婚家のお墓へ詣でます。レンタカーを借りて、車の必要な用はその日に済ませられるので、そうしています。姑の家へも行きます。
先日も「あんた、うちの墓守どうすんの」と聞かれました。どうするって。いま、実際、お墓のことはしています。花を持参して掃除をしてお線香たっぷり。管理料も払っているし、供華の後始末などして下さっている方に、わずかながら心づけもする。夫が死んだらここへはタクシーで来ることになるでしょう、私がへばったら、後は・・・後は、知らん、というのが本音です。
二年。三年前でしたか、それまでは姑の住む家へ、何十年のお付き合いであるお寺のお坊さんが、毎月、来ておられました。
私がヨメになった頃は、最後に来ていた若い坊さんの、おばあさまにあたる方が来て下さっていて、姑は、座卓いっぱいに料理を並べて、勧めながら、自分の思う「神さんの話」を、とうとうと喋りまくっていました。亡くなられた後は、その旧いお寺の跡をとられた方が来ておられ、その僧侶は、姑の神さん話には眉も動かさずに、読経を終えると受け取るべきものを静かに収められ、では、とひとこと、去っておられました。
次男坊だか三男さんだか、息子さんが来るようになり、お寿司が大好物ということで、姑の手料理でなく、出前をとるようになりました。当日はもちろん、夫と私も仏前に侍るのが、姑の望みというか当たり前のこと、だったのですが、夫には仕事があります。坊さんの仕事に付き合って、休むわけにはいきません。で、私だけが行っていました。
生涯つとめ先というものを持たずだった同居の義弟は、したり顔でそこにいます、義弟のツマは楽器のセンセイで、仕事のある日は家にいません。私もずっと、仕事を持っていたのですが、長男のヨメですので、そのへんへのソンタクは無かったです。はじめの時期を超えて事情も家運も変わって、何年か前には私はただ、お布施の用意と寿司代の用意をすればいいようになっていました。
義弟のツマは私が、自分のいない時に家に出入りするのはイヤなようです。私は、今もほぼ、玄関先で帰る。私だってその方がいい(笑)。
姑は豪農の出で・・・ゴダイゴ天皇の時代からどうとか、というのが誇り、自慢、祖先はいざとなれば戦に出るべく、それ用の武具が、蔵の奥の方にしまってある、とのことでしたが、ヨメに出た娘の、息子の、ヨメ、である私は、蔵に近づくことも無く。どうなったのでしょう、それ。実家自慢のタイヘンさを、姑からしっかり学んだのは、確か。
・・・とにかく姑は食べ物が足りないとか少ないのがとても苦手で・・・戦中戦後、結婚相手の親きょうだい、すべて、自分の実家から運ばせた食べ物で命つながせた、というのも、自慢で誇りでした。舅は八人きょうだいの長男でした。戦争に行っていて、ミャンマーでマラリアに侵されたものの、命からがら帰ってきたら、名古屋の空襲で家は焼かれ、父親は焼夷弾の直撃で死んでおり、姉はその同じ焼夷弾で片足吹き飛ばされ、学齢期の妹や弟が、餓死寸前で、母親と力合わせて焼け残った親戚宅の納屋にいて舅を迎えた・・・別の親戚がよそに産ませた子供まで、舅の家では引き取って育てていた、その子をまぜると、九人きょうだいだった。
舅は、「食べさせてもらった」のは事実だけに、何十年言われ続けてイヤだったと思います。姑が小姑さんたちと不仲だったのは、「あんなにしてやったのに」の、姑の思いが、重かったのではないか、と、ひそかに考えています。理不尽なようですが、人の思いというものは、明快に説明しきれるものではない。舅は仕事のできる人で、時代の後押しもあり、けっこうな資産を築いたはずでしたが、弟妹達との絆が強く、どこかが壊れていて女癖ものすごく悪く、姑は夫の女癖に悩んで新興宗教にお金を運んでいたし・・・と、違う方向へ脱線していますね。
戦中戦後も飢えに遠かったが、おいしいものは食べられなかった(本人・談)姑は、お寿司の出前を頼むにも、六人いたら六人分、頼む人ではありませんでした。まあ、寿司の一人前って、満腹になるようなものでもありませんが。
で、お寿司の大好きな寺の若ボンさんが、来てくれるとて、馴染みの寿司屋に手配する。支払いは、長男である私のとこ、これはもう、気にするのもしんどいから、全く気にしなかった、でも、会社が潰れてエラいことになっていて、家の電気が止められていた、なんて時期には、忸怩たる思いがありました。でも、仕方ないのです。
お経が済むと、お茶を出し、お忙しいというのですぐに、お寿司を出す。ボンさんの前には、三人前を一盛の、大きい桶を出す。旧いお寺の次男か三男で、大学院を二つ出て、結婚したいが相手がいない、というYさんは、姑に言わせると「一生、兄さんの世話になりはんのやなあ}のお方。穏やかな、見かけもそこそこのお坊さんですが・・四十歳に近いかな・・昔ならともかく、昨今の女性は、結婚相手とは考えにくいかも・・・の、ひと。悪い人ではない、この言い方が当てはまるひと。もう少し言えば、自分しか見えていないひと。
三人盛の大桶に、ボンボン坊さんは、割った割りばしをかまえていきなり、マグロあたりに手を伸ばす。
これ以後を詳しく書くと、自分の目の意地悪、自分の品性下劣が明らかになりそうですので省略。
何百年だか続いている奈良のお寺の、三十近くまで学校行ったり研究室にいたりの、趣味は外国旅行という、そのYさん。
好きな物だけ選択制、食べ散らかしたといえどほとんど量は減っていない寿司桶を、気にすることも無く、お手拭きを所望されて、お手々きれいに拭われ、みじまいすすっと糺され、これは数年前の発言ではありますが、以前にも書きましたが、再び。
「今日は東京から姉が帰っています、僕がここ、済ませたら、早いこと帰って、みんなで焼肉行きますねん」
嬉しそうにお笑いになりました。たっと立ち上がり、ささっと草履おはきになり、最後の挨拶も無しに、単車ばぶーんとお出しになって、お帰りになられました。
姑も義弟も私も、言葉も無く、しーんとなりました。
残された三人の分は、別に、とってあります。義弟も寿司は好き。スーパーの寿司は食べないが、そこの寿司は、好き、の人。
しばしの後、いつものように姑と義弟が決定したのか(ワタシはお片付けしていたんだよ)、ボンが残した寿司は、ネエさんに持たせてあげよう、になったとのことで。
パックに入れて下さったそれを、私は、持ち帰りませんでした。ものすごく、いやだったんです。
渇して盗泉の水は飲まず。
武士は食わねど高楊枝。
そういう、ご大層なことでなく、ボンさんにも姑にも、いいから持って帰って食べさせてあげて、の「したり顔」の義弟にも腹が立っていました。私の大事な孫に、これは食べさせない、イヤである。
小さいこと言えば、義弟がひたすらいい顔してひたすら会社でつくった借金を(も)、ずっと払っているのは、夫。ひいては私。住む家さえ失いかけていた実情。少しだけそれを漏らした私に、「えらいこと言う、あの子(義弟さんです)は一人で背負い込んで苦労してるんやのに、えらいこと言うわ、あんた、そんなはずないやろ」と、わめいた姑。黙々と頑張ってる長男は、要領悪いからアカン、が姑の気持ち。後始末係。
娘のどちらかに後を、とも云うておられましたが、幸か不幸か(ワタシ的には、だんぜん、幸です)婚家の資産は、この十年間で、何もかも無くなってしまいました。家も土地もオカネみたいなあれこれも、すべて。な~んにも、無くなった。これあげるから家を継ぎなさい、なんて無くなりました、その代わりに、隠れてこそこそ生きなきゃならないことも、今は、一切、無い。そこは、うちら夫婦(主に夫)、頑張りました。子に、負の遺産は渡すものかぁ。
そんな気分で、ガルル、と暮らしていた頃の、話でした。夫は、会社がややこしくなりかけた頃から・・・舅のアイジンさんは「専務」になり、義弟は「常務」になり、どちらも損得の鬼のようになって、引っ張り合って欲しがって、そしてまともでなくなって・・・の頃から、
「親父が作った会社や、親父のしぃたいようにしたらええねん、おふくろも、〇〇(義弟)にしたいようにさせて、意地張り切ったら気ぃ済むんやったら、好きなようにしたらええねん」
と。ワタシとコドモらはどうなるの、みたいなことを言うようになりました、結果、むちゃくちゃになって、舅はアイジンさんのとこを放り出されて、姑も自分で設計図書いた家に住めなくなって・・・私たちの家が、いちばん小さくて古くなっていて、だから、競売にかかるようになっても、姑みたいな辛い思いをしないで済んだ。
持っていなければ、失うことはこわくないんだと。しみじみ思い知りました。・・・また脱線しています。
・・・大桶にハシ突っこんで小皿にも移さず寿司を食らう馬鹿タレ坊主にも、前々からムムム、の思いはあった。ありました。それはまあ、ナニとしても。
お盆、八月十五日に、「早いこと済ませに」来て、事実短かった読経を済ませて、出された寿司に、気、急きながらハシをつけてやって、袱紗さあっと開いて中身、サイドポーチに突っ込んで、席を立って玄関へ、帰省する姉家族と、焼き肉食べに行くために。
あほらしさに頭がほあーんとなり、以後、あのボンさんに出す寿司代は持ちませんと、夫に言ってもらったのでした。なぜ、自分で言わないかって?
私には、言えません。そういう風に、ヨメ、やって来たんです、おそらくそういうこと。
次女は先に結婚しました、長女は去年暮れに、結婚しました。娘たちは、気があれば実家の墓にも参り続けるでしょう、けれど。
わが家に「墓守」は、おりません。
・・・この話、続く、かも、です。