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Top Page › 皇室のことなど › そんなのありですかぁ...
2018-08-26 (Sun) 12:58

そんなのありですかぁ...

以下の記事を読みました。朝日新聞、毎日新聞、東京新聞などで。三日前、2018年8月23日のことです。

昭和天皇「細く長く生きても…」 元侍従の日記に発言

 昭和天皇が85歳だった1987年4月、戦争責任をめぐり、「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛(つら)いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」と発言したとされる側近の日記が残されていることが分かった。
 昭和天皇に長く仕えた小林忍(こばやししのぶ)侍従(故人)が記したもので、家族が保管していた。
 共同通信が小林氏の遺族から日記を入手し、23日、その一部を報道各社に公開した。小林氏は人事院の出身で、昭和天皇の侍従になった74年4月から、香淳皇后が逝去する2000年6月までの26年間にわたって日記を記していたという。
 それによると、昭和天皇が戦争責任を気にかける発言が記されていたのは87年4月7日の日記。「昨夕のこと」と記され、昭和天皇がお住まいの皇居・吹上御所で小林氏に語ったとみられる。

 日記には、小林氏がその場で、「戦争責任はごく一部の者がいうだけで国民の大多数はそうではない。戦後の復興から今日の発展をみれば、もう過去の歴史の一こまにすぎない。お気になさることはない」と話したことも記されていた。

「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛(つら)いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」


とか漏らされたという昭和天皇は、この3週間後、お誕生日の祝宴の際に体調を崩され、翌年の手術などを経て、89年の年初に逝去された。もうこのあたり、ほぼ西暦で語られます。

お生まれになった時、天皇は「神」ではなかった。大正天皇のお子さんとして生まれて来られた。第二次世界大戦の前後(途中?)から、「現人神」という「神」になられました。で、戦争に負けて「人間宣言」をされた、このあたりすべて、ご本人の意志その他ではなかったと考えます。

難しいことは私には論理的には語れません。そんなに詳しくありません。

今回、小林氏の日記の一部を知っての感想は、

「そんなあ。そんなのありですかぁ」。
 

です。一人の人間、ストレス多大な人生を送られた高齢男性としては、とても本音に近い、さもありなん、のお気持ちではありましょう。が、こんなこと言えるんですかぁ。な思いは、動きません。それは、天皇のお言葉に対してのみでなく。

日記には、小林氏がその場で、「戦争責任はごく一部の者がいうだけで国民の大多数はそうではない。戦後の復興から今日の発展をみれば、もう過去の歴史の一こまにすぎない。お気になさることはない」と話したことも記されていた。

この部分に対しても、そうです。

二十二歳年が下のこの侍従氏は、昭和天皇という方の傍に仕えて、少なくともチャラけていい加減な方ではなかったであろうその方が、こころ弱って口にされたのであろう「そんなこと」に対して。

非常に人間的な、思いやりのある対応をされたのかなあ、と、感じます。まあ、よくもそんなこと、言えるものですね、とも、強く思います。

わからなくはない。人は弱いものです。
昭和天皇は、奥さまには何も、本当の気持ちをさらけ出されてはいなかったと思われる。言いようも無かったでしょうし。受け入れるすべを持たない皇后さんでいらしたと推測されます。純な方でいらしたのは事実、しかし戦時中、対応の難しさに夜中も苦悶のうめき声を漏らされるご夫君に対して「うるさいわねえ」と不満をお持ちになったりもされた。甘いものを召し上がるのは止められなかった(皇后陛下ですから)、戦争が終わってすぐの、長男さん(今上)への手紙に、無心に無邪気に,「…飛んでいます、B29は立派です」と書いてやられたのが、昭和天皇の夫人でした。
非難はしていません。ただ、昭和の陛下も、夫として孤独でいらした。お子さま運もむずかしいものをお抱えでした。

幼いうちに一人の内親王を亡くされ。愛されたご長女は、戦中の辛苦をなめられた果て、多くのお子さまを遺して早逝された。次の内親王の夫君は、銀座のプロの女性宅で、ガスで。次の方は、お子さんを授からず、夫君は内内の承諾のもと、外に、血筋としての跡継ぎをもうけられた。皇嗣である長男の妻には、戦勝国の采配で「やまゆり」の女を受け入れざるを得なかった、こころ穏しい次男のもとへは、津軽の姫が嫁いでくれた、子を成すことは不可能であることを、はじめから呑み込んでの入内だった、ここは賢い妃で、決して前へ出てくることをしなかった、末っ子の内親王は、戦後のぱきぱきとした明るい結婚をしたが、一人授かったお子は、軽い障害をお持ちだった。障害があるからどう、という話ではありません。

父親としては、さまざまな思いをされたであろうことは、想像に難くありません。

でも、思う。

昭和天皇に戦争の責任が、あったか無かったか。そういうことでなく。あの時代の天皇であったことは、事実。

広島に一発、長崎に一発。原子爆弾を投下されて、戦争は終わった。それ以前に、どれだけの町が、戦火に焼かれたか。どれだけ多くの人が、焼かれて死んだか飢えて死んだか、どれだけ沢山の家が失われたか、家族もろとも消滅したか、馬や牛や犬も猫も死んだ。

生き残っても、生きて戦場から帰っても、すでにかつてのその人ではなくなっていた日本人が、どれだけ大勢いたか。あの時代の日本人だから、仕方がない? そうは思わない、そうであっても、そう思いたくない、なのに。

「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛(つら)いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」by・天皇
                                 
「戦争責任はごく一部の者がいうだけで国民の大多数はそうではない。戦後の復興から今日の発展をみれば、もう過去の歴史の一こまにすぎない。お気になさることはない」by・侍従


腑に落ちません。


以下は東京新聞です。

「長く生きても…戦争責任いわれる」 昭和天皇85歳 大戦苦悩

2018年8月23日 朝刊

 昭和天皇が八十五歳だった一九八七(昭和六十二)年四月に、戦争責任を巡る苦悩を漏らしたと元侍従の故小林忍氏の日記に記されていることが分かった。共同通信が二十二日までに日記を入手した。昭和天皇の発言として「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛(つら)いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」と記述している。 
 日中戦争や太平洋戦争を経験した昭和天皇が晩年まで戦争責任について気に掛けていた心情が改めて浮き彫りになった。小林氏は昭和天皇の側近として長く務め、日記は昭和後半の重要史料といえる。
 八七年四月七日の欄に「昨夕のこと」と記されており、昭和天皇がこの前日、住まいの皇居・吹上御所で、当直だった小林氏に直接語った場面とみられる。当時、宮内庁は昭和天皇の負担軽減策を検討していた。この年の二月には弟の高松宮に先立たれた。
 小林氏はその場で「戦争責任はごく一部の者がいうだけで国民の大多数はそうではない。戦後の復興から今日の発展をみれば、もう過去の歴史の一こまにすぎない。お気になさることはない」と励ました。
 既に公表されている先輩侍従の故卜部(うらべ)亮吾氏の日記にも、同じ四月七日に「長生きするとろくなことはないとか 小林侍従がおとりなしした」とつづられており、小林氏の記述と符合する。
 日記には昭和天皇がこの時期、具体的にいつ、誰から戦争責任を指摘されたのかについての記述はない。直近では、八六年三月の衆院予算委員会で共産党の衆院議員だった故正森成二氏が「無謀な戦争を始めて日本を転覆寸前まで行かしたのは誰か」と天皇の責任を追及、これを否定する中曽根康弘首相と激しい論争が交わされた。八八年十二月には長崎市長だった故本島等氏が「天皇の戦争責任はあると思う」と発言し、波紋を広げるなど晩年まで度々論争の的になった。
 昭和天皇は、八七年四月二十九日に皇居・宮殿で行われた天皇誕生日の宴会で嘔吐(おうと)し退席。この年の九月に手術をし、一時復調したが八八年九月に吐血して再び倒れ、八九年一月七日に亡くなった。
 小林氏は人事院出身。昭和天皇の侍従になった七四年四月から、側近として務めた香淳皇后が亡くなる二〇〇〇年六月までの二十六年間、ほぼ毎日日記をつづった。共同通信が遺族から日記を預かり、昭和史に詳しい作家の半藤一利氏とノンフィクション作家の保阪正康氏と共に分析した。
<お断り> 「小林忍侍従日記」からの引用、記述部分の表記は、基本的に原文のままとしました。
1987年4月7日の「小林忍侍従日記」。「細く長く生きても仕方がない」と昭和天皇が吐露した心情が記されている

◆心奥触れる「昭和後半史」
<解説> 昭和天皇の侍従だった故小林忍氏の日記には、晩年まで戦争の影を引きずる天皇の苦悩が克明につづられている。アジアの国を侵略した大日本帝国を率い、太平洋戦争の開戦と敗戦に臨んだ天皇の脳裏に刻まれた記憶が、最期まで頭から離れなかったことが改めて確認できる。貴重な「昭和後半史」だ。
 昭和天皇は「戦前も平和を念願しての外交だった」(一九七五年五月十三日)と吐露したり、「細く長く生きても仕方がない」「戦争責任のことをいわれる」(八七年四月七日)と弱音を漏らしたりしていた。戦時中、学徒動員された二十二歳年下で一侍従の小林氏に信頼を寄せ、胸中を直接、明かした。戦争責任を問う世評に神経をとがらせる内情がにじむ記述だ。
 アジアの国にも配慮を見せている。八〇年五月二十七日の記述には、国賓として来日した中国の華国鋒(かこくほう)首相に「陛下は日中戦争は遺憾であった旨先方におっしゃりたいが、長官、式部官長は今更ということで反対の意向とか」とある。小林氏は昭和天皇の考えに賛意を示すが、幹部が、中国侵略を正当化する右翼の反発を懸念し、封印してしまう。
 戦前の青年将校によるクーデター未遂で閣僚らが犠牲になった「二・二六事件」(三六年)があった二月二十六日は毎年、「慎みの日」としていた記述も多数ある。既に公になっているエピソードだ。「臣下」を失った悲しみは、癒えることはなかった。
 敗戦から七十三年。戦争の記憶が遠くなる中、昭和天皇が晩年、どういう思いで「大戦」に向き合ったのか、心奥に触れる価値ある日記だ。 (共同・三井潔)

自分のしらなかったことだって。なんとなく流されてしまった、と実際、言いたくたって。

責任とる、とらされるのが、トップというものでは、ないんですかぁ。

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最終更新日 : 2018-08-26

No title * by まめはな
陛下、それでは、お国のためを思って死んでいった英霊の皆さまたちが報われません…

No title * by KUON
・まめはな さん

一行下さったコメント、私、涙がとまらなくなりました。大げさではないです。いつもはそんな風に思わないのですが、この記事、過剰反応したのかな私、と、不安で。

昭和天皇は、マイナス方向で語られること、少ない・・東宮があまりにひどいのと、そのおとっつぁんである今上が、やはりひどいので・・美点が多く取り上げられ(確かに立派な方だったとは思います、無私だとか無欲だとかおそらく事実、ご自分の命を懸けられたことも、天皇陛下らしいと。

その、昭和天皇さまを、天皇さまあなたもか、の視点では、見ないことにする、ってやりようがあるのか、この、晩年の天皇の人としての弱さ、辛い思いは、下手に触れないで反応しないで、やり過ごすのがいいのか、そうなのか、と。

わかって差し上げなくてはならない、のか。おいたわしい、のか。おいたわしい思いは、在ります、普通に。

自分としてはナーバスな思いがありました、裏コメントも幾つかもらい、その花畑具合に、実際、へこみました。まだ騙されているつもりなの???と。水平に、見ようよ、と。何がこわいのか、私は、誰の、何の「擁護」でもない、できるだけきちんと見たいだけなのよ、と。

・・私の意見や思いを、いい、として下さらなくても、それは仕方ないこと当たり前のこと、でも、晩年でこころ弱っておられたとはいえ、私は、

それを言ってはおしまいよ、と。そうとしか、思えず。今も同じ、あなた様がそれを仰っては、第二次世界大戦で命を落とした日本人300万人の、その無念はどうなるのだ、と。300万人どころではない、実はその何倍もの人々が、戦争による被害を受けた、今に至るまでそれは。「自分の戦後はまだ終わっていない」と、気持ちをふりしぼって書いておられるご高齢の方が、どれだけ多いか。いま、2018年にして、そうなんです。

もう過去のこと、気にするなと慰められた侍従氏の、心情は、わからなくもない、でも、それはどうなんだ、それ言ったら、300万人の、その何倍もの・・・と、堂々巡りになるのです。

ふざけるな~~、と私は、感じました。

ですから、まめはなさんが、重い深い一行を書いて下さって、嬉しかった、ありがとう、と思いました。

正直、当分・・いつごろまでかは分からない・・・こういったことを、書くのは止めよう、惑うのも、と、そんな気持ちになっています。

ありがとう、まめはなさん。




No title * by さと子
KUONさん、戸惑われる事はありませんよ。
私も、それを言っちゃおしまいよ陛下!!と思いました。
マッカーサーに「この命を預ける」と言われた事は本当なのでしょうが、、

まだまだ生きたかったであろう特攻隊の若い清い眼差しを陛下は見られた事はないのか・・原爆で生き地獄を味わった方々の存在を忘れられたのか・・

年を召され心細くなった点を差し引いても、『兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる』という嘆きは聞きたくありませんでした。

所詮庶民の暮らしや痛みなど想像出来ない特別な方達と思ってしまいます。

No title * by KUON
・さと子さん

こころを撫でて下さるようなコメントをありがとうございます。

いささか過激にヒステリックになっていたのでしょうか、私。(笑)。わからなくはない、でも、あんまりだ、の気持ちが膨れ上がってしまったような。

勝手に期待したり勝手に幻想を抱いたり。そういうものが、まだ残っていただけなのか、しょせん、菊のカーテンの向こうのことなど、本当には分からない、わからないのが当たり前、なのか。

>所詮庶民の暮らしや痛みなど想像出来ない特別な方達と思ってしまいます。

つまりそういうこと、なのですね。お慕いしていた短歌の師、そして職業軍人でいらした夫君が、敗戦によって廃人となられて、大変な苦労をされた短歌の先輩などの、口に出しようの無かったであろうさまざまな思い、今になって、自分は短慮、浅はかだったなあ、許して下さっていたのだなあ、の思いが強くなるばかりです。

婚家の姑のいとこの(どんだけややこしい(笑))、中国へ征っていたおじさまの、あちらで娘さんたちをおかした後、一軒の家へ集めて押し込んで薪を積み上げて火をつけて・・・という話を、私が嫁いだ頃には、集まりの時などに、たのしそうに、面白かったと話していた‥聞くに堪えなかった話でした・・・それが、年を経るにつれ、お年を召されるにつれ、すまん事をした、自分だってしたくてしたのでなかった、に、変化して行った。何十年たって、興奮が苦しみに変わって行かれた、ことも、ずっと私は、何も言えず批判もできないままでしたが、見て、感じていました。

戦争責任を言われるのが辛い、とは。弟宮が亡くなった後の心弱りから、とは。

分からなくはない、人としてはそうであるかも、ですが。天皇である人が、それを言ったらいったい、と私は、やっぱり、聞き過ごす気持ちには、なれないです。跡継ぎが、戦後のアプレというか、ああであり、その次代のお方がいま、ああであるゆえに、なおさら、それはないでしょう、と、胸がおさまりません。

コメント、ありがとうございました。



No title * by さと子
KUONさんの反応を私は、いささかも過剰反応とは思いません。最後の怒りと申しましょうか?ブルータスお前もか・・の類い。(文才が無くて申し訳ありません)
最期の砦を無残に壊された嘆き。同じ思いです。寧ろ文章に出来る方が、私達の気持ちを代弁して下さったと思っております。


色々な記事を読ませて頂くばかりでコメントもなかなか上手く出来ませんが、
まっすぐなお心はビシビシ伝わって来ております。

昭和天皇の実造 * by ラピスラズリ
重い内容の記事のご紹介有り難うございます。
私は戦後の生まれですから戦争そのものも戦後の空気もリアルには知りません。
父も含め戦争の実態をあからさまに語る人が身近にいなかったのでまさに戦争は過去の歴史のひとつでした。

でも戦争は天皇の名の元に始められ天皇が止めると言わなかったばかりに多くの人が巻き込まれ犠牲になり悲惨な死を強いられ残された人たちも塗炭の苦しみを味わわなければならなかったんだという思いはずっと持っていました。

天皇の聖断で戦争が終わったというなら、なぜ始める前に無謀な戦いは止めようと言わなかったのか、なぜ敗色が濃厚になった時点でもっと早くその決断をしなかったのか、という不信感は強くありました。
もっと早く降伏していれば二度の原爆投下の被害もソビエト侵攻や中国残留孤児の悲劇もなかったのですから。
日本が受けた悲劇の張本人は間違いなく昭和天皇自身です。
天皇はむしろ戦局が悪化していく一法の報告を受けても「もっと敵を叩けないのか」と悔しがっていたという記事を読んだときに天皇がこれでは戦争を誰が終わらせられようか、原爆で止めを刺されるまで続いたわけだと初めて天皇へのはっきりした憎しみを覚えました。

更に極めつけは両陛下揃っての記者会見で広島長崎への原爆投下について聞かれた時に独特の間延びした口調で「え~、あの~そのような文学的な言葉のあやについてはよく分かりません」みたいな曖昧な表現で交わしたのを怒りの気持ちで許せないなと思ったのを覚えています。
言葉のあや?そんな問題ではないだろう!と。
イデオロギーとか全く関係なくその一言で昭和天皇が人間として嫌いになりました。

そして今回の「戦争責任のことを言われる」で昭和天皇は内心ただの一度もあの戦争への贖罪の気持ちなど持たなかったのではないかと思いました。
自分に責任があるとは思ってないから他人に言われることが不本意で腹立たしかったのだろうと。
真に反省していたらこんな不服な言葉は出なかったはずです。
雅子ヒの「おじいさまが悪く言われている」と全く同じ思考であることに驚きです。

戦後の巡行のニュースを見ても驚くほど大勢の日本人が天皇を取り巻き熱烈に歓迎しているのはなんたったのでしょうか?
なぜ日本人は天皇の戦争責任を殆ど問わなかったのでしょうか?
贅沢三昧の今上夫婦を素朴に歓迎する今の大方の日本人の姿に重なります。

昭和天皇は絞首刑は免れても自らどのタイミングかで退位してけじめをつけるべきだったと思ってきましたが、全く悪いとは思ってないから退位もなぜしなくてはならないのだ?だったのでしょうね。
全く救いがありません。

晩年重篤な病に侵されなん十日も下血報道の果てに亡くなったけど長引く闘病に母と密かに「戦争で亡くなった人たちの罰を受けてるね」「多くの人の恨みでなかなか死ねないのだろう」「あの世に行ったら英霊にまず詫びよ!」と語り合ったのを覚えています。
もちろん崩御の時も涙なんか出ませんでした。

そんな昭和天皇の罪を背負っているはずなのに今上は贅沢三昧のまま終わろうとしています。
一度も尊敬できないままでした。そのまた次代は言うも愚か語るも愚かで一人前の人間として思えないのはナサケナサヲ通り越していますが。

若い頃のテニスコートでの写真はどれも美智子サンは夫の耳位までの背丈の小柄で猫背気味のずんぐりした女性ですね。
どの頃からか背丈がぐんぐん伸びて今や若い頃と逆の背丈になっていますが、医学的にもあり得ないことだと想うのにネット以外でそのことは語られませんね。
もし別人なら国民を騙す大逆罪なのに。このまま目をつぶってこの先も死ぬまで莫大な血税を使いたい邦題させるとしたら日本人はいよいよお目出度い国民と自嘲するしかないですね。

お陰さまで昭和天皇への反感を意識の底から率直に語らせていただきました。
あくまで私個人の思いです。

誤字訂正と質問 * by ラピスラズリ
昭和天皇の実造⏩実像
使いたい邦題⏩放題

すみません。訂正致します。

それからひとつお尋ねさせて下さい。
文中に「やまゆり」の女とありますが、美智子サンを指しているかと思いますが、どういう意味でしょうか?
想像がつかなかったものですから教えて頂ければ幸です。

No title * by KUON
・さと子さん

再び勇気を下さり,こころからお礼申し仕上げます。

ブルータス、お前もか。そう、そんな感じの気がします、これはジュリアス・シーザーのセリフ、この直後にシーザーは暗殺される。気づかないでいたのは、シーザーだけだったと、思えば、哀れ、なのか・・民には何も知らせるな、とか。民はごまの油みたいに、極限直前まで絞っちゃえ、とか。

もっと考えて惑って、おそらく、また、書いてしまうと思います。また勇気づけて下さい、小心者のヘタレ、が、私の実相。たはは。

・ラピスラズリさん

熱のこもったコメントを、ありがとうございます。うなずく部分もあり、自分はちょと違う、の部分もあり・・・戦争なんて大きなことは(きっかけは小さなコトにせよ、)天皇という存在の、ただ一人の責任に寄る、ということは、あり得ないと私は考えます。いろんな思惑があり欲があり、吹いてはならぬ方向の風が吹き、あるいは風の方向さえ強引に変えようとした企みがあり、大きな大きな渦の中に、ひっぱられ始めたら、途中ではどうにもならないようになっていった、とも。

ある意味では昭和の陛下も、ある地点から見れば、被害者の一人だったと言えなくもない・・のかも知れません。だからといって、ただお労しい、おきのどくであられた、とは、言い得ないはずです。天皇であったのですから。天皇は断罪されず、死をたまわらず、子孫もそのまま残しておかれた。天皇家では(悪い冗談ですが)餓死者は出ておられませんし。ひとことでは語れない、とは、私は、思うのです。

ですから、だから、こころが弱っても死の少し前の心境でも、ああいう風にはおっしゃって欲しくなかった。と。侍従さん、日記に記して、それが、残ってしまって、なんというか、共同通信の手に渡って、それが、ちら、と出された、という話。

他の部分もっと、すべて、読みたいです、私。

読みたいなあ、全部。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

以下は、かつて私が書いた記事の一部みょうやく探して来ました。

「やまゆり」とは?の疑問に、とうてい応えきれませんが、そのものズバリの記事も過去に書いています、今日げんざいでは探せていません、ただ、やまゆりは、キリスト教に関わりがあり、それを示す絵画もあり、と、書いていたのでしたが。

今日は、よろしければ、以下の、昭和天皇の沢山の御製のなか、皇太子の第一子男児を得て、平和時の天皇が残された御製について、お読みになってみてくだされば、と。

    「はじめての皇孫」

 山百合の花咲く庭にいとし子を 車にのせてその母はゆく

(そして徳仁親王誕生。

大切な皇孫。

にしては。

この一首の情景を、描いてみました。


 山百合の花咲く庭にいとし子を 車にのせてその母はゆく

山百合の咲く庭・・・は、そのままに浮かびます。

皇居のいずこか、広大なお庭に、山百合が咲く・・2月生まれのナルちゃんさんは、生後数か月になっておられるか。

いとし子を、車にのせて…乳母車でしょう、後ろから押すタイプ、こちらから見えているのは、乳母車の赤子の帽子と、車をおして行く母親の、背中だけ。

美智子さんは、想像すると、ノースリーブのワンピース姿。

「いとし子を乗せて、若い母親は、どんどんあちらへ行く。

陛下は、見送っている構図になります。

言葉の使い方が、常の陛下のようでない気もします。

全体的に感じるのは、距離感。

お気持ち的には「傍観」。

新しい時代の皇太子妃だから。

言ってしまえば身もふたも無いが、押されて受け入れた妃だから。

なんとはなし、距離がある感じを受けます。

美智子さんの背中に、放っておいて下さいね、のメッセージまで感じるのは、考え過ぎでしょうか。

皇孫誕生に関しては、この一首だけ。


昭和天皇のお歌思い出しました * by ラピスラズリ
そしてあ、そうだったかと像を結びました。
つまり今の皇后からは花のイメージが全くなかったのです。
歌の解説もとても興味深く読ませて頂きました。有り難うございます。

本当に平凡と言うか将来の日継ぎの皇子を詠んだ感情が読み取れませんね。
淡々とし過ぎているというか。
愛情が伝わって来ません。

車に乗せて、も何か引っ掛かりました。乳母車を押してとする方が母子への暖かな目線が感じられるのに乗せてってどこか機械的だなと私は感じました。
KUONさんの言われる距離でしょうか。

精一杯の演技をしていたことでしょうが天皇のお心にしっくり入っていけてはなかったのだなと分かるような気がします。

なぜこの一首だけだったのだろうと思いますが今上も皇后も孫を詠んだ歌はあることはあるのでしょうか?
写真と同じように言葉もまた色々な真実を語るものなのだなと思いました。

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No title

陛下、それでは、お国のためを思って死んでいった英霊の皆さまたちが報われません…
2018-08-27-13:31 * まめはな [ 返信 * 編集 ]

今も夢見る No title

・まめはな さん

一行下さったコメント、私、涙がとまらなくなりました。大げさではないです。いつもはそんな風に思わないのですが、この記事、過剰反応したのかな私、と、不安で。

昭和天皇は、マイナス方向で語られること、少ない・・東宮があまりにひどいのと、そのおとっつぁんである今上が、やはりひどいので・・美点が多く取り上げられ(確かに立派な方だったとは思います、無私だとか無欲だとかおそらく事実、ご自分の命を懸けられたことも、天皇陛下らしいと。

その、昭和天皇さまを、天皇さまあなたもか、の視点では、見ないことにする、ってやりようがあるのか、この、晩年の天皇の人としての弱さ、辛い思いは、下手に触れないで反応しないで、やり過ごすのがいいのか、そうなのか、と。

わかって差し上げなくてはならない、のか。おいたわしい、のか。おいたわしい思いは、在ります、普通に。

自分としてはナーバスな思いがありました、裏コメントも幾つかもらい、その花畑具合に、実際、へこみました。まだ騙されているつもりなの???と。水平に、見ようよ、と。何がこわいのか、私は、誰の、何の「擁護」でもない、できるだけきちんと見たいだけなのよ、と。

・・私の意見や思いを、いい、として下さらなくても、それは仕方ないこと当たり前のこと、でも、晩年でこころ弱っておられたとはいえ、私は、

それを言ってはおしまいよ、と。そうとしか、思えず。今も同じ、あなた様がそれを仰っては、第二次世界大戦で命を落とした日本人300万人の、その無念はどうなるのだ、と。300万人どころではない、実はその何倍もの人々が、戦争による被害を受けた、今に至るまでそれは。「自分の戦後はまだ終わっていない」と、気持ちをふりしぼって書いておられるご高齢の方が、どれだけ多いか。いま、2018年にして、そうなんです。

もう過去のこと、気にするなと慰められた侍従氏の、心情は、わからなくもない、でも、それはどうなんだ、それ言ったら、300万人の、その何倍もの・・・と、堂々巡りになるのです。

ふざけるな~~、と私は、感じました。

ですから、まめはなさんが、重い深い一行を書いて下さって、嬉しかった、ありがとう、と思いました。

正直、当分・・いつごろまでかは分からない・・・こういったことを、書くのは止めよう、惑うのも、と、そんな気持ちになっています。

ありがとう、まめはなさん。



2018-08-27-23:56 * KUON [ 返信 * 編集 ]

No title

KUONさん、戸惑われる事はありませんよ。
私も、それを言っちゃおしまいよ陛下!!と思いました。
マッカーサーに「この命を預ける」と言われた事は本当なのでしょうが、、

まだまだ生きたかったであろう特攻隊の若い清い眼差しを陛下は見られた事はないのか・・原爆で生き地獄を味わった方々の存在を忘れられたのか・・

年を召され心細くなった点を差し引いても、『兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる』という嘆きは聞きたくありませんでした。

所詮庶民の暮らしや痛みなど想像出来ない特別な方達と思ってしまいます。
2018-08-28-11:58 * さと子 [ 返信 * 編集 ]

今も夢見る No title

・さと子さん

こころを撫でて下さるようなコメントをありがとうございます。

いささか過激にヒステリックになっていたのでしょうか、私。(笑)。わからなくはない、でも、あんまりだ、の気持ちが膨れ上がってしまったような。

勝手に期待したり勝手に幻想を抱いたり。そういうものが、まだ残っていただけなのか、しょせん、菊のカーテンの向こうのことなど、本当には分からない、わからないのが当たり前、なのか。

>所詮庶民の暮らしや痛みなど想像出来ない特別な方達と思ってしまいます。

つまりそういうこと、なのですね。お慕いしていた短歌の師、そして職業軍人でいらした夫君が、敗戦によって廃人となられて、大変な苦労をされた短歌の先輩などの、口に出しようの無かったであろうさまざまな思い、今になって、自分は短慮、浅はかだったなあ、許して下さっていたのだなあ、の思いが強くなるばかりです。

婚家の姑のいとこの(どんだけややこしい(笑))、中国へ征っていたおじさまの、あちらで娘さんたちをおかした後、一軒の家へ集めて押し込んで薪を積み上げて火をつけて・・・という話を、私が嫁いだ頃には、集まりの時などに、たのしそうに、面白かったと話していた‥聞くに堪えなかった話でした・・・それが、年を経るにつれ、お年を召されるにつれ、すまん事をした、自分だってしたくてしたのでなかった、に、変化して行った。何十年たって、興奮が苦しみに変わって行かれた、ことも、ずっと私は、何も言えず批判もできないままでしたが、見て、感じていました。

戦争責任を言われるのが辛い、とは。弟宮が亡くなった後の心弱りから、とは。

分からなくはない、人としてはそうであるかも、ですが。天皇である人が、それを言ったらいったい、と私は、やっぱり、聞き過ごす気持ちには、なれないです。跡継ぎが、戦後のアプレというか、ああであり、その次代のお方がいま、ああであるゆえに、なおさら、それはないでしょう、と、胸がおさまりません。

コメント、ありがとうございました。


2018-08-28-15:57 * KUON [ 返信 * 編集 ]

No title

KUONさんの反応を私は、いささかも過剰反応とは思いません。最後の怒りと申しましょうか?ブルータスお前もか・・の類い。(文才が無くて申し訳ありません)
最期の砦を無残に壊された嘆き。同じ思いです。寧ろ文章に出来る方が、私達の気持ちを代弁して下さったと思っております。


色々な記事を読ませて頂くばかりでコメントもなかなか上手く出来ませんが、
まっすぐなお心はビシビシ伝わって来ております。
2018-08-28-20:27 * さと子 [ 返信 * 編集 ]

昭和天皇の実造

重い内容の記事のご紹介有り難うございます。
私は戦後の生まれですから戦争そのものも戦後の空気もリアルには知りません。
父も含め戦争の実態をあからさまに語る人が身近にいなかったのでまさに戦争は過去の歴史のひとつでした。

でも戦争は天皇の名の元に始められ天皇が止めると言わなかったばかりに多くの人が巻き込まれ犠牲になり悲惨な死を強いられ残された人たちも塗炭の苦しみを味わわなければならなかったんだという思いはずっと持っていました。

天皇の聖断で戦争が終わったというなら、なぜ始める前に無謀な戦いは止めようと言わなかったのか、なぜ敗色が濃厚になった時点でもっと早くその決断をしなかったのか、という不信感は強くありました。
もっと早く降伏していれば二度の原爆投下の被害もソビエト侵攻や中国残留孤児の悲劇もなかったのですから。
日本が受けた悲劇の張本人は間違いなく昭和天皇自身です。
天皇はむしろ戦局が悪化していく一法の報告を受けても「もっと敵を叩けないのか」と悔しがっていたという記事を読んだときに天皇がこれでは戦争を誰が終わらせられようか、原爆で止めを刺されるまで続いたわけだと初めて天皇へのはっきりした憎しみを覚えました。

更に極めつけは両陛下揃っての記者会見で広島長崎への原爆投下について聞かれた時に独特の間延びした口調で「え~、あの~そのような文学的な言葉のあやについてはよく分かりません」みたいな曖昧な表現で交わしたのを怒りの気持ちで許せないなと思ったのを覚えています。
言葉のあや?そんな問題ではないだろう!と。
イデオロギーとか全く関係なくその一言で昭和天皇が人間として嫌いになりました。

そして今回の「戦争責任のことを言われる」で昭和天皇は内心ただの一度もあの戦争への贖罪の気持ちなど持たなかったのではないかと思いました。
自分に責任があるとは思ってないから他人に言われることが不本意で腹立たしかったのだろうと。
真に反省していたらこんな不服な言葉は出なかったはずです。
雅子ヒの「おじいさまが悪く言われている」と全く同じ思考であることに驚きです。

戦後の巡行のニュースを見ても驚くほど大勢の日本人が天皇を取り巻き熱烈に歓迎しているのはなんたったのでしょうか?
なぜ日本人は天皇の戦争責任を殆ど問わなかったのでしょうか?
贅沢三昧の今上夫婦を素朴に歓迎する今の大方の日本人の姿に重なります。

昭和天皇は絞首刑は免れても自らどのタイミングかで退位してけじめをつけるべきだったと思ってきましたが、全く悪いとは思ってないから退位もなぜしなくてはならないのだ?だったのでしょうね。
全く救いがありません。

晩年重篤な病に侵されなん十日も下血報道の果てに亡くなったけど長引く闘病に母と密かに「戦争で亡くなった人たちの罰を受けてるね」「多くの人の恨みでなかなか死ねないのだろう」「あの世に行ったら英霊にまず詫びよ!」と語り合ったのを覚えています。
もちろん崩御の時も涙なんか出ませんでした。

そんな昭和天皇の罪を背負っているはずなのに今上は贅沢三昧のまま終わろうとしています。
一度も尊敬できないままでした。そのまた次代は言うも愚か語るも愚かで一人前の人間として思えないのはナサケナサヲ通り越していますが。

若い頃のテニスコートでの写真はどれも美智子サンは夫の耳位までの背丈の小柄で猫背気味のずんぐりした女性ですね。
どの頃からか背丈がぐんぐん伸びて今や若い頃と逆の背丈になっていますが、医学的にもあり得ないことだと想うのにネット以外でそのことは語られませんね。
もし別人なら国民を騙す大逆罪なのに。このまま目をつぶってこの先も死ぬまで莫大な血税を使いたい邦題させるとしたら日本人はいよいよお目出度い国民と自嘲するしかないですね。

お陰さまで昭和天皇への反感を意識の底から率直に語らせていただきました。
あくまで私個人の思いです。
2018-08-29-00:15 * ラピスラズリ [ 返信 * 編集 ]

誤字訂正と質問

昭和天皇の実造⏩実像
使いたい邦題⏩放題

すみません。訂正致します。

それからひとつお尋ねさせて下さい。
文中に「やまゆり」の女とありますが、美智子サンを指しているかと思いますが、どういう意味でしょうか?
想像がつかなかったものですから教えて頂ければ幸です。
2018-08-29-01:38 * ラピスラズリ [ 返信 * 編集 ]

今も夢見る No title

・さと子さん

再び勇気を下さり,こころからお礼申し仕上げます。

ブルータス、お前もか。そう、そんな感じの気がします、これはジュリアス・シーザーのセリフ、この直後にシーザーは暗殺される。気づかないでいたのは、シーザーだけだったと、思えば、哀れ、なのか・・民には何も知らせるな、とか。民はごまの油みたいに、極限直前まで絞っちゃえ、とか。

もっと考えて惑って、おそらく、また、書いてしまうと思います。また勇気づけて下さい、小心者のヘタレ、が、私の実相。たはは。

・ラピスラズリさん

熱のこもったコメントを、ありがとうございます。うなずく部分もあり、自分はちょと違う、の部分もあり・・・戦争なんて大きなことは(きっかけは小さなコトにせよ、)天皇という存在の、ただ一人の責任に寄る、ということは、あり得ないと私は考えます。いろんな思惑があり欲があり、吹いてはならぬ方向の風が吹き、あるいは風の方向さえ強引に変えようとした企みがあり、大きな大きな渦の中に、ひっぱられ始めたら、途中ではどうにもならないようになっていった、とも。

ある意味では昭和の陛下も、ある地点から見れば、被害者の一人だったと言えなくもない・・のかも知れません。だからといって、ただお労しい、おきのどくであられた、とは、言い得ないはずです。天皇であったのですから。天皇は断罪されず、死をたまわらず、子孫もそのまま残しておかれた。天皇家では(悪い冗談ですが)餓死者は出ておられませんし。ひとことでは語れない、とは、私は、思うのです。

ですから、だから、こころが弱っても死の少し前の心境でも、ああいう風にはおっしゃって欲しくなかった。と。侍従さん、日記に記して、それが、残ってしまって、なんというか、共同通信の手に渡って、それが、ちら、と出された、という話。

他の部分もっと、すべて、読みたいです、私。

読みたいなあ、全部。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

以下は、かつて私が書いた記事の一部みょうやく探して来ました。

「やまゆり」とは?の疑問に、とうてい応えきれませんが、そのものズバリの記事も過去に書いています、今日げんざいでは探せていません、ただ、やまゆりは、キリスト教に関わりがあり、それを示す絵画もあり、と、書いていたのでしたが。

今日は、よろしければ、以下の、昭和天皇の沢山の御製のなか、皇太子の第一子男児を得て、平和時の天皇が残された御製について、お読みになってみてくだされば、と。

    「はじめての皇孫」

 山百合の花咲く庭にいとし子を 車にのせてその母はゆく

(そして徳仁親王誕生。

大切な皇孫。

にしては。

この一首の情景を、描いてみました。


 山百合の花咲く庭にいとし子を 車にのせてその母はゆく

山百合の咲く庭・・・は、そのままに浮かびます。

皇居のいずこか、広大なお庭に、山百合が咲く・・2月生まれのナルちゃんさんは、生後数か月になっておられるか。

いとし子を、車にのせて…乳母車でしょう、後ろから押すタイプ、こちらから見えているのは、乳母車の赤子の帽子と、車をおして行く母親の、背中だけ。

美智子さんは、想像すると、ノースリーブのワンピース姿。

「いとし子を乗せて、若い母親は、どんどんあちらへ行く。

陛下は、見送っている構図になります。

言葉の使い方が、常の陛下のようでない気もします。

全体的に感じるのは、距離感。

お気持ち的には「傍観」。

新しい時代の皇太子妃だから。

言ってしまえば身もふたも無いが、押されて受け入れた妃だから。

なんとはなし、距離がある感じを受けます。

美智子さんの背中に、放っておいて下さいね、のメッセージまで感じるのは、考え過ぎでしょうか。

皇孫誕生に関しては、この一首だけ。

2018-08-29-19:15 * KUON [ 返信 * 編集 ]

昭和天皇のお歌思い出しました

そしてあ、そうだったかと像を結びました。
つまり今の皇后からは花のイメージが全くなかったのです。
歌の解説もとても興味深く読ませて頂きました。有り難うございます。

本当に平凡と言うか将来の日継ぎの皇子を詠んだ感情が読み取れませんね。
淡々とし過ぎているというか。
愛情が伝わって来ません。

車に乗せて、も何か引っ掛かりました。乳母車を押してとする方が母子への暖かな目線が感じられるのに乗せてってどこか機械的だなと私は感じました。
KUONさんの言われる距離でしょうか。

精一杯の演技をしていたことでしょうが天皇のお心にしっくり入っていけてはなかったのだなと分かるような気がします。

なぜこの一首だけだったのだろうと思いますが今上も皇后も孫を詠んだ歌はあることはあるのでしょうか?
写真と同じように言葉もまた色々な真実を語るものなのだなと思いました。
2018-08-29-19:33 * ラピスラズリ [ 返信 * 編集 ]