師走のおべんきょう Ⅳ
今年最後の墓参りに出かけたのです。墓地はしいんとしずまって、詣でるひとの姿も無く、花の色も無く。今日はすこし立派な=値段の高い=

大阪のMさんのお宅へ立ち寄らせてもらいました。もう半年前になります、今の流行りでない、という身も蓋もない理由で捨てられた、元保護犬のハスキー犬、「リッキー」。安心して暮らせる環境、「お父さん」の大きな深い愛情、手造りの新鮮な野菜もバシバシ食べて、眉間に刻まれていた「険」の跡形もすっかり無くなり、幸せなワンコの穏やかな顔で、厚い舌で、しっぽ、ブンブン振りながら、顔中をぺろぺろ嘗めてくれました。嬉しかったよ、リッキー。
続けます。
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ひらりんこ
一日中ひとりで過ごす開放感
いつもふたりで居られればこそ
夫が難病認定を受けて約2年。生きていてくれることへの感謝や幸せを、
日常の中で忘れがちになる自分を時々叱ります。
切ないです。お気持が、うたという定型におさまって、きちんと表現されています。
この「解放感」も。生きていて下さることへの感謝も。どちらも本当。なんですよね。
おおやま よしの
会うことの 叶わぬ人の 車椅子
押す手に我も 力添えたし
・・もしかしてわたしKUONに下さった一首かと。ありがとうございます、恐縮です。
日常的に車椅子を使っているのではないのです。めったに私的にあうことの無い長女の夫さんが、車に積んで来てくれて、車椅子に乗せて押してくれるんです。長くは歩けない私を。それが嬉しくて、詠んでおきたくての一首です。
実は海辺のシーン、背景は、ほかの場所。ムコさんに押してもらっている自分の姿を、海の背景にはめて。合成写真のようなうたにしたのでした。
われも力添えたし、と詠んで下さったお気持ち、確かにいただきました。ありがとうございました。
物知らぬ 后を戴く 民草の
悲哀は何処へ 流れつくらむ
「物知らぬ」のみであるなら、仕方が無いと呑み込むことも出来そう。そうでないから。
秋篠の 宮様方を 敬慕する
民おりますと 伝えまつらむ
五十余の 人生初の 野良仕事
稔りを食す 有り難さ沁む
これは、確かに「有り難さ」沁みますよね。
いつの日か などては言わじ 逢いたくば
すぐ逢えば善し 悔い残すまじ
明くる年 こそは佳き年 浄らなる
年になれよと 祈る年の瀬
真摯に生きる人々にとって、この祈りは、心からのものと思います。普遍的な願い。
それが、なかなか難しそうな。難しいけど、どうしてもそうなって欲しいと、もうすぐ来る新年(にいどし)に、祈る。あのあたりの穢れが払われて、そして、と。
私事をこてこて書いてしまって。
今夜はここまでとさせていただきます。