五月のおべんきょう Ⅱ
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ギボウシ
少しずつ「古語」っぽい表現?(日本語が貧しくてすみません…)に
挑戦しようと試みております。添削をよろしくお願い致します。
(古語っぽさに挑戦されると。その意気やよし、と、拍手ぱちぱち、させて頂きたいのはやまやまなれど。私自身が、きちんと正確に、そちら方面のこと、わかっておりません。たまたま短歌を始めた時の先生が、古典的な仮名遣いの方で、ワケわからんわ~とアタマひねりながら慣れて行った、という感じで。たわらまち が華々しく出てきた時、本当に羨ましかった。こんなやり方でいいんだ、伸び伸びやってはるな~、と、ミズカラの非才を思わず、ヒトを羨む情けなさでした。でも、今、本当に才のおありの一流歌人、俵万智さんのうたを読むと(新仮名遣いの)、なんともいえない勿体なさを感じています。
ワタシは旧仮名でうたを詠むようにしてもらって、有り難かったな、と。いつもかどうかは別、時々にしても、これは旧仮名でないと感じ出ないな、という時がありまして。まあ、前置きはともかく。
仰っている「古語っぽい」。私の解釈で受け取らせてもらい、とにかく、一首ずつ、歌の意が届くように、一首が一首として成り立って行くように、を、心がけて行きたい、と。私に言えることは、とほほ、それくらいのことであって。
「古語」という言葉の範囲の、端っこにも触れられないかもしれませんが。
・営みを止めて澄みたるこの空の青きを憂うヒトの住まう世
(この「営みを止めて」とは。いわゆるコロナ騒動によって、いろんな工場が動きをやめることになって、結果、空が、青く澄んでいる。その澄んだ空の青さを「憂う」、ヒトの住まう世であるなあ、と。なかなかに難しい。
「営みが停まりて澄める青空の青きを憂う「〇〇~となる感じですか。複雑な心境。〇〇の部分は「今日も休業」あるいは「休業の日々」。
・窓を開け五月の薫風(かぜ)の吹くままに 惑い入る蠅の飛び去るを待つ
真ん中の「惑い入る」は、もっとシンプルでいいのでは。「入り来たる蠅の」でも。窓は開いており、風は吹いており、で、蠅は、入って来てアレレ?で、入り来て、黙って、去って行く。のでは。
・ハエ叩き 振り下ろしたし 一撃で しとめる腕の我にあらばや
(日本語の難しいところ、面白いところ、ですね。
「あらばや」と「ありせば」は、意味が同じでないですね。あらばや、であれば、文字そのまんま。ためらわず「やっちまう」のかな。「ありせば」ですと、もう少し引いて、あったなら、あるのなら、と、そこで数歩(足ではないけど)引く思いが生じる。ような気がします。正しく文法的に話しているんではない、私のアタマの中のムシが、そう言うてます。ここは「好み」で行かれたら。
無責任のつもりは無いが、うたの言葉の最終決定の主は、ご本人。残念ながら私は、せいぜいここまでしか言えません。あたまの中で、百回とか千回とか、繰り返せば、どちらかが浮き上がって来てくれるのかも。
黒猫アビ
・布マスク届き昭和を懐かしむ
いつのまにやら便利さに慣れ
いわゆる「アベノマスク」が届いた。この届いたマスクは、今、大量に詠まれているかと思いますが、この一首のように、布のマスクに昭和を懐かしむ、と持ってゆかれたのは、温くていいと思います。せっかくそちらに行かれたのだから、いつの間にやら便利さに慣れ、なんて方角でなく、「洗いて角を引きて干したり」とか、そういう感じにされたらどうかなあ、と。政府のなさることに温もりを感じることなど、めったに無いことなので。
・鳥のよう翼がほしいどこへでも
飛んでいければ楽しかろうと
(コロナ籠りの日々の中の、大きなため息でしょうか。
このままですと、よくあるうたになってしまいそう。最後の(結句といいます)七文字、楽しかろうと、ではなく「胸も晴れるか」とかにされると、具体的になります、いかがでしょ。
・あきらめた額紫陽花がよみがえり
花が咲きだし心いやされ
(最後は「心いやさる」「心満たさる」にされたら。よかったですね、こういうの嬉しいですね。
この地に越して14年、毎年咲いた鉢植えの紫陽花が昨年は咲かず
もう駄目かと、かわりにムスカリが今年は花開くことなく終わりました。
今夜はここまでとさせていただきます。