八月のべんきょう Ⅳ
まめはな
回復されたようで何よりです。では、参ります。
(少しだけ言わせて下さいね。
そんな簡単に回復したりへたったり、ないですよ、そんなの。それなら楽な話。なんとか頑張って前向きに、と、思うはそれ、ではないですか。私も書いていいかどうか、自分なりに考えつつアタマがボーとか書いています。必要と思う時には、です。本当は自分の体調の話など書きたくない、エラそうですが、できるだけ触れないでおくので、あまり気になさらないで頂きたいです。ご心配おかけしてすみません。言ってもいいだけ、すこうし、ね。
・汗拭いたハンカチ洗って干している先から乾いていく夏の午后
(これはよくわかる。お上手です。<
・病む父にあたりし幼き日の悔いの今病みつきし我が身を責めり
(お父さまも辛かったでしょう、でも、子どもにはわからないんですものね、どうしようもない。あまりご自分を責めないで。この世には「どうしようもないこと」が、たくさんあって・・・。うたのラストは「責むる」「ですね。責めをり、かも。でも、文字が余ってしまうからね。
・大学など行くな嫁行け自転車屋のおばさん我に何度も言えり
(この「自転車屋のおばさん」は、真偽はともかくリアルです。こういうおばさん沢山いて。放っておいてくれ、とは、お腹の中でしか言えず・・わたし、そのあたりで捻じれたハートが、そのままになっている気がします。
・会いに来て会えないままに青森の山を降り来て列車に乗れり
・親が娘(こ)を並べ数えてひふみよい今日はどの娘(こ)を連れて行こうか
(皇室)
アルジェリマン
今月もよろしくお願いします。
両腕の時計すべて動かぬも誇らしげなるソ連兵憎し
ネジ巻くも知らぬ野蛮の者どもの捕虜となりたる 祖父悔しがる
〈おじい様、それは本当に悔しかったでしょう。顔にも出せないし。ここ。
「捕虜となりしを」あるいは「捕虜とされしを」かなあ、とも思います。「捕虜なりしこと」かなあ、とも。ご一考を乞います。
シベリアの鉄路支える枕木はわれらが祖父の苦難の証(あかし)
(息さえ凍るシベリアで。食べ物も衣類も無く、けれど日本兵は、懸命に仕事をしたのでしょう。国にたばかられていたとなど、ほぼ、思いもせずに。
過酷なるビロビジャンの一年半 舞鶴に立つ祖父四十歳
(ビロビジャンはハバロフスクの200キロ東。
昭和18年7月に出征し、22年2月に帰還した祖父の思い出。)
(過酷、なんてものではなかった、おそらく一年半。40歳のおじいさまは、どんな思いで舞鶴の地を踏みしめられたのでしょう。そして戦後に生まれたアルジェリマンさんを、どんな思いで抱きしめられたのでしょうね。
爆音は遠くのどかに聞こえたり 玉音聞いて帰る暑い日
(当時15歳、旧制中学生だった父の思い出)
(まだ父親は還っていない。中学生の少年の耳に、爆音は遠くのどかに聞こえた。戦争は終わったらしい、が、まだ、爆音は響いていたんだあ・・遠く、のどかに。すごいレアリズムですね。
今夜はここまで、とさせていただきます。